始球式とHG

ボクの重要な情報源の一つ、キオスクに下がっている夕刊の宣伝に次のようなことが書いてありました。
「HG、オリックスに出入り禁止」
記事自体は読んでいないのでそこで何を言われてるのかはよくわかりませんが、HGというのはレイザーラモンHGというやつのことで、オリックスというのはたぶんこの場合はプロ野球の球団のことでしょう。

関係あるのかわかりませんが、それをみて、ちょっと前にニュースで見た映像を思い出しました。HGがオリックスの試合の始球式に出てきてマウンド上で振りかぶったのですが、そこでHGは例の「フォー!!」をやったので、ボールはキャッチャーの方へではなく三塁側の方へ点々と転がっていった。それをみた清原がベンチベ爆笑していた、というような、まあほのぼのとした映像です。僕もそれをみて笑ったのですが、なぜかやけに印象に残っていたのでした。そして今日、渋谷駅でそのことを思い出して、その映像がなぜ印象に残ったのかを考えたのでした。

空間というものは、苦々しかったり甘かったり憎らしかったり縮んだり伸びたり歪んだりする、要はそこに存在している人間の精神が浸透しているものであり、ニュートンがイメージしたような空虚な延長としての空間というのは、人間の生きている空間とは異なります。そしてまた、空間に跡というものがつきます。たとえば、野球場にいってマウンドに登ってご覧なさい。

マウンドの上からみた空間には、様々な跡が伸びています。が、そのなかでももっともくっきりした跡は、マウンドからキャッチャーのところへ伸びる跡でしょう。その軌道には、おそらくこれまで数千球、数万球ものボールが行き交ってきたので、その痕跡がくっきりと獣道のように残っています。だから野球のボールをもった二人の男の子をグラウンドに乗っけてみれば、かなり高い確率でそのうちの一人がマウンドに登り、もうひとりはキャッチャーのところに座ります。そこには痕跡が残っているからです。

空間に残された痕跡というのは、実は複雑に入り組んでいます。この場合も野球のマウンドを考えるのがいいでしょう。マウンドからホームベースへと伸びている空間の痕跡は、ボールを投げるという行為と結びついています。そしてボールを投げるという行為を可能とするためには、その投げるという仕草を体の中に刻み込まなければなりません。しかもマウンド上で投げられるボールというのは単なるボールではなく、それなりに訓練された投球であるわけですから、そのぶん体の中への刻み込みも入念になされなければなりません。そう、マンガの『タッチ』でたっちゃんが庭で投げ込みをしてましたよね。あれです。つまり、マウンドからホームベースへと伸びている空間の痕跡は、野球少年、高校球児、さらにはアマ野球の選手やプロ野球選手のはてしなく繰り返されてきた投球練習とそれによって体に刻み込まれた投球動作へとそのまま接続されています。

マウンドは神聖であるといわれます。それは、このようにその空間上のみならず、そこに接続されている身体上の痕跡や、さらには「野球」という名の下でそれをまなざす様々なひとびとの心に残されている感情的な痕跡とが、そのマウンドという空間に合流しているからです。空間に刻まれている痕跡は、そこに続いている様々な痕跡とあいまって初めて成立しています。だからそこにはなにか犯しがたい磁力のようなものが生まれるのです。

で、始球式です。まあ安っぽいアイドルなんかが出てきてもどうなんだろうっていう感じですが、たとえば往年の名選手なりがやってきて始球式の球を投げるっていうのがどこか感動的なのは、それは一人の人間の生の一回限りの軌跡が、マウンド上からホームベースへと伸びる痕跡に残されている歴史と、そこに居合わせたひとびとの目の前で束の間交錯するからです。すでに深く刻まれた痕跡の軌道に自分の身体の運用を重ね合わせることには、いくらかは自動人形めいたところがあるのですが、しかし人はその時このばあいならば野球という一つの大きな伝統の自動人形になるわけで、そこに身を預けることが感動的になるということもあるんです。うん。

で、HGです。いつ頃からか、テツ&トモくらいからかなあ、お笑い芸人が一つの定型でもって売り出してそれがかなり早いサイクルで次々に取って代わられるというパターンが一般的になり始めたのは。まあそれはそれとして、HGもまさにそのパターンにはまった一人です。で、こういったタイプの芸人は空間の痕跡を利用します。というよりも、空間に痕跡を刻むことができた芸人が「売れた」ということになるんですね。HGの場合はおなじみの「フォー!!」。つまり、HGがスタジオに立てば、その時点であの反復的動作、足を大きく交差させて両腕を空へと広げるあの動作が空間に残された痕跡として現われてくる。だから、彼はもういくらか自動人形のようにその動作を繰り返さなければなりません。しかものっぺらな芸能空間のこと、残されたと思った痕跡も砂浜で波に洗われて消えていく人の顔の絵ように、ちょっと気を抜くと薄くなっていってしまう。ほら、テツ&トモ。だからよけいたえず必死に痕跡を刻み込みつづけなければならない。「フォー!!」。

だからつまり、HGの始球式であるわけです。野球の痕跡が刻み込まれたマウンド上に立ったHGは、しかし野球の痕跡に身を預けずにHGという芸人の痕跡に身を任せて「フォー!!」というわけです。そしてこれは必然的で、歴史が残していったしみじみとした痕跡よりも、刹那的に浮かれた芸人の痕跡の方が強力になっているのが現代なんだと思います。

とまあ夕刊の記事の内容と関係があるのかはわかりませんが。