返せない贈り物

足長おじさんっていう話がありますが、あれがどんな話なのか詳しいことは知りません。とにかくどこかからお金を送って来るおじさんがいる。少女はそのおじさんに感謝しながらも、それがどんな人なのか想像する。このくらいは間違っていない気がします。

さて、「感謝」です。少女が感謝するのはもちろん理解できますが、それはどんな感謝でしょう。ここにあるのはたんなる恩人に対する感謝ではありません。そこには時間と力の不均衡があります。少女は子供で無力である。おじさんは大人でお金を持っている。無力の状態にあるときに恩義を被り、さらにそれに対する返礼をする力を手に入れるまでには「成長」というゆるやかで気の長い時間が絶対に必要であること。こういう場合、「感謝」というのは格段に強烈になるのではないでしょうか。というのも、そこには絶対に返すことのできないものがあるからです。もしどうしてもすべて返そうとするのであれば、タイムマシーンに乗って恩義の場面に戻るしかないでしょう。

絶対に返すことのできないものをもらうということにはなにか恐ろしいものがあります。これは、ヤクザの親分が鉄砲玉を作り上げる常套手段なんじゃないでしょうか。『仁義なき戦い 広島死闘篇』の北大路欣也の場合がそうでした。そういえば高校生の頃、サマーセット・モームの『月と六ペンス』のなかで、「女は自分のことを救った男のことを決して許すことがない」というようなことが書いてあって理解できなかったのですが、ここに関係するのかもしれません。

でも考えてみれば、親と子の関係っていうのはたいていこういう贈与で成り立っているわけです。本当は、絶対に返すことのできない何ものかを子供は受け取っているはずなんです。でも、「家族」というようなイメージがあって、「親が子を養うのは当然」っていう語りがあって、だから本当は途方もないはずの贈り物が、なんでもないかのように当たり前に受け取られてしまう。

今回の甲子園、選抜大会には史上始めて離島の高校が実力で出場を勝ち取りました。沖縄は石垣島八重山商工です。しばらく前にNHKでその野球部員と監督を取り上げたドキュメンタリーをやってました。そのなかの一場面。二年生ピッチャーの当山君は昼休みになると家に帰ります。食堂を営んでいる家の手伝いをするためです。泰然かつ朴訥とした性情で「大トロ」とあだ名されている彼は、向けられたカメラに対してこう言っていました。「いままで育ててもらって野球までやらせてもらっているから、その感謝の気持ちとして少しでも手伝いたいなあって思って」。

こういうのにウルっときてしまうのは、年を取ったせいでしょうか、それともいまだに親のすねをかじっている疚しさからでしょうか。いやいや、目にゴミが入っただけです。