こちらのブログで、米軍基地移転反対に関する岩国市での住民投票について書かれていました。
http://sky.ap.teacup.com/deep/
思うところがあるのでいくつか書きます。

グース氏の意見を要約するとこんな感じでしょうか。
1、国家の防衛は国政の管轄である。
2、それに関して問題となる「民意」は国民の「民意」である。
3、今回の住民投票が示すのは岩国市の「民意」である。
4、国民の「民意」は先の選挙においてすでに示されており、岩国市民は市民である前に国民であるのだから、国民としての「民意」に従う必要がある。

このこととは別に今回の住民投票固有の問題(すぐに失効する、など)にも言われてるわけですが、そのことは措くとして、上に示されている論理はかなり一般的な問題を示していると思うのでそのことに関して。

国防の問題が国家の管轄であり、そこに反映されるべきである声は「国民」という次元におけるものであって、岩国市の住民投票をもって国に「民意に従え」とすることが形式上おかしいという点には同意しますし、そもそも「民意」というレトリックはどうも気持ち悪くて嫌いです。しかしその一方で、国民の声を代表しているところの国会議員の多数が賛成しているんだから反対などせずそれに従うべきだ、という論理には違和感を覚えます。ここには、地方と国家という関係の問題だけではなく、選挙と権力というものをどう考えるのか、という問題も控えているように思えます。選挙という制度を受け入れているんだから、選挙後は選挙に基づいて選ばれた政府の決定に黙って従え、というような風潮が、特に先の選挙以降強くあるような気がしますが、これはどうなんでしょう。グース氏の論理にも僕はこの要素を感じたのでした。

民主主義において権力者は、選挙の時点という過去の委任のみを参照するのではなく、次の選挙という未来をも参照するわけで、その未来と過去の中間にいると考えるのが妥当だと思います。つまり「失政」をすれば次の選挙に落ちるという淘汰圧が働くわけです。その淘汰圧が、単に選挙時の「民意」だけではなく、たえず揺れ動く現在の「民意」を政治家が参照することを促します。というのもその現在の「民意」は未来の選挙における淘汰にかかわってくるからです。一度の選挙でもってその過去の時点で完全な権力の委任が成立するというのは、厳密には選挙が一度しか存在しない制度においでしかありえません。

ここでは、ちょっと単純化してしまいますが、「民意」というものには二種類ある、と考えるのがいいのでしょう。
・過去の選挙の時点で示された「民意」=コンスタティブな「民意」
・次の選挙で示されるであろう「民意」=パフォーマティブな「民意」
で、民主主義の形式上、権力というのはこの前者、コンスタティブな「民意」を代表しているということになるのだと思います。「民意」というものをこの点でだけ考えるとすれば、選挙結果によって選ばれた政府を批判することは無意味になります。あらゆる批判は、「お前が選んだんだろ」と反論されることになるからです。しかし実際には権力は、過去の「民意」と未来の「民意」の両方を参照しなければならないわけで、そこに「健全な」民主主義というものの育つ土壌があるのでしょう。

で、今回の住民投票はどのような「民意」に関係するのか。コンスタティブな次元で言えば、住民投票で示されたのはグース氏のおっしゃる通りすぐに消えてしまう旧岩国市の「民意」であり、そもそも制度上、国政に影響を及ぼすのは直近の選挙で示されたコンスタティブな国民の「民意」であるので、いわゆる「おかどが違う」ということになります。グース氏が今回の住民投票を批判しているのもこれに近い観点に基づいてだと思います。しかし、権力が参照する「民意」は実際は過去のものだけではなく未来のものでもあります。その現実に即して考えればまた違った風に見えてきます。岩国市での住民投票は、コンスタティブな民意ということでいえば無意味ですが、パフォーマティブなものと考えればそうともいえません。というのも、それは権力を正当化しているはずの過去の「民意」を表現しているのではなく(そもそもそんなことは不可能です)、現在の岩国市民の「考え」を示すという形で、国民の「民意」に対して働きかけようとしているものであり、それによって国政の次元での淘汰圧に影響を与え現時点での政治判断に一石を投じようとするものであると考えられます。。そして事実、今回の住民投票はそのような回路を形づくっていると思いますし、それがメディアの役割でもあります。

岩国市民の「現在の考え」を住民投票という形で示して、それをとおしてパフォーマティブな「民意」に働きかける、ということは戦術として十分に考えられるものであると思いますし、そのような回路を開いておくことは「健全な」民主主義を準備するものでもあると思います。もちろんそこで開かれた回路を通して、米軍基地の移転問題についてどう考えるかは開かれているわけであり、またそこで感じ取られた「民意」をどのように扱っていくかは「政治的判断」ということになるのでしょう。いずれにせよ、オートマティックに権力をつねに悪として「民意」をそれに対峙させてみせるパフォーマーも、また「反対」という声を聞くだけでオートマティックに嫌悪する姿勢のどちらも健全ではなく、議論を可能にするためにできるだけ多くの回路を開いていくことには気を配らなければ行けないと思いますし、今回の住民投票に関しても、ひとつの回路として尊重していいと僕は思います。