スティーブン・ヴァイクトス『「間主観性」の社会学』

主体と他者の関係

ミードにとっての間主観性の成立とは、ある刺激にたいする反応が単に生物学的・本能的なものではなく、その刺激に対して他者が反応するように自己が反応できるようになることを意味する。ここにおいて、「組織化された客我」と「一般化された他者」が同時に成立する。この点において、ミードにおいては自我というものはなんら超越的な実体ではなく、間主観的な体制の中で構成される集団的なものである。
    • ポイントとなるのは、「一般化された他者」と「組織化された客我」というものがきれいに重なるものとして把握されているという点だろう。ここにヴァイクトスによる批判が向けられるひとつの要素がある。

社会集団は、その集団の内部に含まれている行為者にとって、その集団がもつ意味に関して記述的に考えられなければならない。つまり、社会集団は、その集団内部にかかわっている行為者の経験の中にあらわれるがままに考えられなければならないのである。P74

    • ミードにとっては社会的枠組の変化とは、特定の主体によって想像された新しい意味の形が他者によって承認されることによって生じる。ここには、特定の社会において「一般化された他者」というものが一枚岩のものとして存在している、という暗黙の想定がある。それに対してヴァイクトスは、「一般化された他者」とは均質なものではなく、個々の主体それぞれによって構築されるものであり、社会の中では複数の「一般化された他者」が競合しあっている、というイメージを持っているように思われる。この点から、「パースペクティヴ」についての次のような捉え方は、ミード的にもヴァイクトス的にも理解することができる。

人間集団においては、パースペクティヴの共同体は成員のパースペクティヴの内部にある。P42

    • 両者のこの違いは、ミードが他者の態度の取得というものを、社会における他者の全体の態度の取得としてとらえるのに対し、ヴァイクトスはそのようなことが不可能であり取得はつねに断片的でしかありえない、と考えるという違いにも明らかに反響している。
    • ミードとヴァイクトスの関係は、「一般化された他者」を単数的に考えるか複数的に考えるか、という点にひとまずは集約することができるように思えるが、一方で、この両者ともに陥っている単純さがあるように思える。つまり、「一般化された他者」というものを単数的に考えようと複数的に考えようと、いずれにせよ主体が十全に他者の態度を取得することが可能である、という点を前提にしているように思える点だ。これに対して、むしろ主体というのは、他者の態度の取得の失敗を通して成立する、というラカンの議論を示すことが可能だろう*1
    • さらに、想起に関するフッサールハイデガーとの相違もまた関係してくるだろう。ハイデガーにおける、生きられたことのない過去の想起*2

*1:ジョアン・コプチェク『わたしの欲望を読みなさい』P54など

*2:Bernard Stiegler "La thechnique et le temps" p268あたり