マーク・ポスター 『情報様式論』
☆ 第二章 ボードリヤールとテレビCM
メディアと領域
ポスターは、かなり疑問のあるやりかたでルーマンのメディア概念を引き合いに出すが、ルーマン理解の当否は別として、そこでメディアは「現代社会の細分化された諸制度を結びつける紐帯」(P86)と理解されており、このメディアのイメージは興味深い*1。
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- ゲマインシャフト的な紐帯の消滅を埋め合わせる、細分化された紐帯として、近代社会に特殊なものとしてあるメディアの姿というものが把握される。
メディアは人々を独特な仕方で包容・排除し、また統合・分割する社会的調整の諸形式である(byメイロウィッツ)
そしてまた同時にメディアは「言語的事実」として理解されなくてはならない。
電子メディアは原則的には誰にでも相手や時間を選ばないコミュニケーションを可能にすることによって、たしかに社会的相互行為における時間ー空間という変数を変化させている。グローバル・ヴィレッジというマクルーハンの夢は、<原理的には>技術的に可能なのだ。だがそうした遠隔コミュニケーションは、<実際には>言説の新たな構造となるのである。P88
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- テレ・コミュニケーションにおける同時性を通して構造化作用が消滅してしまうかのような短絡的な発想に対し、「言説の新たな構造」としてあたらしいメディア布置をとらえるというのは必要な理解だろう。
言説と主体化
ポスターが視野に入れる「言語的事実」としての情報というものを考えるならば、不可避に主体化という問題を考える必要がある。それゆえここにアルチュセールの名前が登場してくるのは必然だろう*2。
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- しかし、そこに留保がつけられる。
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アルチュセールは、テレビCMのような文化的実践が主体を構成する特殊な効果を説明し、その際文化的ヘゲモニーを物質的実践に関係づけたことと、中心化された主体という人間主義的概念を切り崩したことにおいてはグラムシを越えている。この点では、アルチュセール的なテレビCMの分析は、ありもしない自立的主体への依存によって欺かれてはいない。それでもなお主体の問題は、科学の問題をめぐるアルチュセールの言説の中にふたたびあらわれてくるのである。P105
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- 「科学」の中立化と、生産様式=階級闘争への還元、という二重の問題。
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- 生産様式から情報様式へ、というポスターの足取り