[映画・文学]『グラントリノ』とイーストウッドの「回心」

クリント・イーストウッドの『グラントリノ』を昨晩観てきたのですが、これがまたすごい傑作。観終わった後のぼーっとした頭でカレー屋に入って、なんとなく勢いで大盛りを頼んだら量が多すぎて食べきれませんでした。そのくらいよかった。

以下、ネタバレ含むので気をつけてください。

イーストウッドはこの『グラントリノ』で俳優業を引退するようなことをほのめかしているようですが、確かにこの映画で彼は、自分が俳優として生み出してきたある人物像に対して一つの「ケリ」をつけています。

ことあるごとに銃を取り出し、ギャングたちもそいつで脅かし退散させてしまう、100パーセント全米ライフル協会に入っているに違いないあのウォルト・コワルスキーには、これまでイーストウッドが演じてきたアウトローたちが明らかに取り付いています。

NY Timesの批評家はこう書いています。

"Dirty Harry is back, in a way, in “Gran Torino,” not as a character but as a ghostly presence. He hovers in the film, in its themes and high-caliber imagery, and of course most obviously in Mr. Eastwood’s face."
「ダーティー・ハリーが帰ってきた。ただし『グラントリノ』では人物としてではなく、むしろ亡霊のような存在感として。彼は映画のなかに、テーマややり手の人物像のなかに、そしてもちろん疑うべきもなくイーストウッド氏の顔のなかにただよっている。」
http://movies.nytimes.com/2008/12/12/movies/12tori.html

法の杓子定規な適用では手のでないグレーゾンで超法規的な「決断」をもって暴力を行使するアウトロー、カウボーイ以来のこのアメリカ的なイメージは、銃の表象と切り離すことはできません。銃というのは、国家への暴力の集約の拒否の象徴です。最後には自分の身は自分で守るという、警察機構からいくらかはみ出すその身振りを象徴するのが、アメリカにおける銃の意味なのだと思います。

「例外状況」監督イーストウッドは、いつもその銃の場所に身を置いていたと僕は理解しています。国家の暴力装置からははみ出したところで、絶対的な孤独のなかで暴力を行使する。暴力の行使は必然的に孤独と断絶を導きだすのですから、そこにはいつもアウトローが生み出されるわけです。

このアウトローのイメージは、先ほどの批評家が指摘していたように、誰の目にも明らかな形で『グラントリノ』にも取り付いています。しかしこの映画はそのイメージを取り込みつつ、それに「ケリ」をつけて見せるのです。それも、まさしくイーストウッドの「回心」とでも呼ぶしかない驚くべきやり方でもって。

当初の偏見を超え、ウォルト・コワルスキーは隣人のモン族の少年タオと仲良くなり、仕事の世話などもしてやる。しかしそんななか、以前から同じモン族のギャングにつきまとわれていたタオは、仕事道具を奪われ顔に根性焼きをされてしまう。そこでダーティー・ハリーが乗り移ったウォルト(78歳)は、ギャングの一人に夜襲をかけ(!)、ボコボコにした上でタオにはもう近づかないように脅す。どこに出しても恥ずかしくない、立派なダーティー・ハリー的やり口です。

しかしこれが逆にギャングを刺激してしまい、タオおよびその家族が酷い目にあう。こうなればもう高倉健ばりの「カチ込み」があるばかり、と思いきやそこで大逆転が起こる。

復讐を叫ぶタオを地下室に閉じ込め、ウォルトは単身ギャングのたまり場へと向かう。しかしそこでウォルトがとった選択は、アウトロー的な暴力とそれがもたらす暴力の連鎖に「ケリ」をつけるための「殉教」だった。ギャングをさんざん刺激し、近所の住民たちが推移を見守る中、ウォルトはタバコを口にくわえ、右手を素早く内ポケットへ滑り込ませる。銃を取り出そうとしていると勘違いしたギャングたちは、ウォルトを蜂の巣にする。しかしウォルトは実は丸腰で、その手にはライターが握られていただけ。警察が呼ばれ、ギャングたちは連行される。つまりウォルトはアウトロー的な暴力で解決するのではなく、みずからが犠牲となることでギャングたちを警察という国家の暴力装置に引き渡す、という道を選んだ。

この「殉教」に出かけるに際して、ウォルトは妻の遺言に従って教会に「懺悔」にでかける。まさに「回心」です。その場でウォルトが「懺悔」したのは、以下の三つ。
1、40年ほどまえに些細な浮気をしたこと。
2、ある臨時収入に際して税金を払わなかったこと。
3、息子たちとの関係がギクシャクしたこと。
数十年ぶりに行う懺悔としてはきわめて拍子抜けさせられる(彼は朝鮮戦争で13人以上を殺している)これらの告白内容は、しかしとても意味深です。なにか解釈がある人は教えてください。

イーストウッドは『グラントリノ』の終盤の手前までに、入念にダーティー・ハリー的アウトローのイメージを召還し、それをウォルトに宿らせる。その上で結末に「殉教」という道を選ばせることで、それらのアウトローイメージに「ケリ」をつける。『グラントリノ』の結末のどんでん返しは、まさに映画界におけるイーストウッド・シリーズそのもののどんでん返しであるわけです。

ところで、「グラントリノ」というのはウォルトが所有するフォード車の名前です。それはフォードの組立工としてのウォルトの充実した日々を象徴するものであり(グラントリノの部品の一部はウォルトが自分で取り付けた)、またアメリカの繁栄の象徴でもあります。ウォルトは死に際して、遺言としてこの車をモン族のタオに遺す。ここには、アウトローには原理的に不可能な身振り、「相続」が生じています。

ウォルトの過去、アメリカの過去を象徴する「グラントリノ」は、彼自身の子供たちにではなく、モン族の少年タオに「相続」される。しかも、映画内で触れられているように、モン族というのはベトナム戦争中にアメリカに協力したため、戦後共産主義政権から迫害を受けアメリカに亡命してきた人々でした。つまりアメリカに住むモン族は、アメリカの機会主義的暴力が生み出した副産物である訳で、その一員であるタオに、機会主義的暴力に「ケリ」をつける「殉教」の身振りをもって、ウォルトは「グラントリノ」を相続させるのです。

映画のラスト、タオはウォルトの犬デイジーを横にのせ、グラントリノに乗って湖脇の道路を走り抜けていきます。そのままエンディングになり、エンディングロールが流れる間、カメラは、青い空、青い湖、その脇を走り抜ける車、というアメリカ的な光景を移しつづけます。しかしそこに走る車たちのなかの、おそらくもっともアメリカ的な車の一つであるグラントリノを運転しているのは、モン族のタオです。

アメリカの過去を相続し、そしてアメリカの未来を担っていくのは誰なのか。またどういう身振りがそのような相続を可能にするのか。イーストウッドは「グラントリノ」という一つの固有名詞のなかに、それらすべての問いを凝集させました。それも、映画人としての自身のキャリアを鮮やかに横断することで、アメリカの集団的な記憶を形成してきた映画というメディア自身の問題として、それを引き受けようとしています。

結論はこうです。

『グラントリノ』、すばらしい、『グラントリノ』。