快感原則の彼岸と死


pikarrrさんとのやりとりのなかで、「快感原則の彼岸」の話が出たので、それに関する文章をここに貼ることにします。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070104#p1参照。
いつものように注意書き。

1、文章の属性
全体で原稿用紙換算1000枚ほどの修士論文のごくごく一部。

2、文脈
反復そのものとしての死というテーマに関して、「快感原則の彼岸」に関するフロイトの議論を取り上げたもの

3、使用上の注意
前後する文章へのほのかな参照も入り込んでいるがそれは無視して読む

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フロイトが「快感原則の彼岸」において死の欲動を見出すきっかけとなったのは、よく知られているように反復強迫の問題を考察していくことによってであった。フロイトは欲動について次のように述べている。

欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするものである 。*1

ここで「早期の状態」と呼ばれているのはその有機体が存在し始める前の状態であり、それゆえその欲動は死の欲動と呼ばれることになる。ところで、この死の欲動には生の欲動が対比され、たとえば「性欲動は固有の生の欲動である」とされる *2。それもまた欲動であるからには「早期の状態」を反復するものであるにも関わらず、なぜ性欲動は生の欲動であるとされるのか。その選択は、のちにヴァイスマンの「死すべき〈ソーマ〉」と「不死の〈胚原形質〉」 *3との区別が参照されることからわかるように、生物個体と遺伝子との区別にもとづいている*4 。個体は死に、遺伝子は生きる、というわけだ。ただしこの区別は、あくまでも生物個体に基準をおいた暫定的なものでしかない。「早期の状態」を反復するのが欲動なのであれば、フロイトによって生の欲動と呼ばれているものは、結局は個体よりははるかに迂遠な道を通るというだけで、結局は別の次元に位置しはするがそれもまた死の欲動であることには変わらない。二種類の欲動に「生」と「死」という性格がそれぞれ付与されるのは、たんに生物個体の消滅を死と捉える常識的な発想に基づいてのことであり、その言葉尻にこだわることは避けなければならない。
 フロイトは欲動を、生物個体の死の反復、より正確には誕生以前の状態としての死の反復であると捉えた。つまりフロイトは、ある特定の状態の反復、ある起源の反復という図式を前提とした上で、そこで反復されるものとして死を見出したのだ。そこでは、死が反復されるのではなく反復そのものがつねにすでに死の経験である、という可能性はまったく考慮されることはなかった。
 そもそもフロイトの無意識の理論そのものが、反復するものの発見として開始された。ヒステリーとは反復するものであり、その反復をもたらすものとして見出されたのが無意識であった。すなわち、無意識が反復するのであり、意識はその反復するものを抑圧する、というわけだ。ここにもまた、起源と反復との見馴れた関係が見出される。つまり反復するのは無意識という起源であり、のちにその起源にエディプス・コンプレックスという名前が付けられるのだとしても、それは結局のところ反復する起源という基本的図式の一つのエピソードに過ぎない。フロイトが思いつかなかったのは次の転倒である。無意識が反復するのではなく、反復するものが無意識なのだ。
 繰り返し見てきたように、人間とは反復するプログラムの固有な編み物である。とすると、フロイトが無意識という反復するものを発見した、というのはいかにも奇妙な話である。反復するものしか存在しないのに、いかにして反復するものを発見することができるのか。実際にフロイトがなしたことというのは実は、反復を抑圧するものとしての意識の発見である*5 。より正確に述べるならば、他のプログラムを抑圧するものとしての意識というプログラムがそこでは発見されたのだ 。性の抑圧というフロイトのテーマは、意識のプログラムが動物的身体のプログラムの抑圧を通して構成されているということを述べているにすぎない。
 生の欲動と死の欲動というフロイトの区別は、遺伝子のプログラムと個体形成のプログラムとの区別であり、より一般的な表現に置き換えるとするならばそれは系統発生と後成発生との区別である。その区別のどちらにおいてもフロイトは、起源としての死の反復しか見ることをせず、反復そのものが死であるということを見なかった。そしてこのことは、後成系統発生に関しても同様にあてはまる。
 フロイト最晩年の著書でありその荒唐無稽さにおいて悪名高い『モーセ一神教』は、明らかに後成系統発生のテーマを扱っている。そこでは「ユダヤ」という統一性を貫く伝承されるものが問題とされているのだ。フロイトの「物語」は明瞭である。ユダヤ人のモーセは実は虚構であり、実はモーセエジプト人であった。ユダヤの民はその実際のモーセを殺害するとともに、その事実を隠蔽し忘却するために虚構であるユダヤ人のモーセを作り上げた。しかしモーセ殺害の記憶はユダヤの民にトラウマを残し、そのトラウマは絶えず回帰してくる。その絶えず回帰する殺害の記憶を抑圧する共同体がユダヤである、というのがその「物語」だ。

ユダヤの歴史を貫く周知の二重性??二つの民族集団、これらは国家の形成のために合体した。二つの王国、この状況のなかでこの国家は崩壊した。聖書原典に見られる二つの神の名前。??以上のような二重性にわれわれは新たに二つの二重性を加えておく。二つの宗教創設、最初の宗教は別の宗教によって抑圧されながらも、のちになって別の宗教の背後に立ち現われ勝利をおさめるに至った。二人の宗教創始者、両者ともにモーセという同じ名前で呼ばれているが、われわれは二人の人物を互いに区別すべきである。そしてこれらの二重性のすべては、第一に上げた二つの民族集団という二重性に淵源するのであり、民族内の一群の人びとが心的外傷と言ってもよい体験を得てしまい、残りの人びとはこれと縁がなかったという事実からの必然的な帰結なのである 。*6

ここで繰り返し提示されている「二重性」の意味は明らかだ。トラウマをもたらした起源が見出されその抑圧を通してその起源が反復されていくという、その起源と抑圧との「二重性」である。その二重性を通して反復されるものは、系統発生の層にも後成発生の層にもなく、それは明らかに後成系統発生の層において反復するものである。「ユダヤ」を貫く統一性は、遺伝的記憶あるいは個々人の神経的記憶の「外」で反復するものであり、それゆえ新しく生まれた世代がそこへと巻き込まれていくことができるのだ。
 このフロイトの「物語」が依然として起源とその反復という図式を有しているということはさておき、その「物語」に対してごくごく素朴な質問を投げかけることができる。その原初の「殺害の記憶」の支持体はいったい何なのか、というのがその質問だ。それは口承で伝えられるのか、書き残されるのか、それとも何か他の支持体が存在するのか。しかし、そもそもその「殺害の記憶」が抑圧されたものであるとするならば、それはどのようにして伝えられうるのか。痕跡とプログラムという概念から出発するならば、フロイトの「物語」は完全に転倒させられる。反復は起源が抑圧されることで生じるのではなく、反復が抑圧されることで起源が生じる。そして反復は、口承なり書物なりといった痕跡を通してつねにすでに反復されているのであり、もし「ユダヤ」の統一性というものが存在するとするならば、それは痕跡を通して生み出されているプログラムの統一性でしかありえない。そしてエジプト人モーセの死という起源が反復されるのではなく、反復そのものがつねにすでに死であるのだ。

《外部》は《内部》によって生み出され、またその逆もしかりである。言い換えれば、生者(内部)による死者(外部)の捕捉はまた死者による生者の捕捉でもあるということである。そしてここには死のもう一つの審級を加えなければならない。すなわち、三次的把持のエートスとしての前個体的環境という審級というのがそれであるが、それは集団的でトラウマタイプ的な二次的把持を支える(原基?予持がそこにおいて構成される原基?把持)ものとしてである。そこで支えられる二次的把持は、マルクス資本論において省察されたものであり、フロイトが『モーセ一神教』において苦しんだ世代間のトラウマの伝達の謎を構成するものである 。*7

しかし結局フロイトは、後成系統発生を構成する三次的把持というものを考慮しなかったために、「トラウマの伝達の謎」を理解することに失敗したとスティグレールは述べる 。フロイト自身は、はっきりと意識することはなかったが、彼は欲動という観点から反復の問題を正面から取り上げるとともに、生の欲動と死の欲動との区別においてプログラムが系統発生と個体発生というそれぞれ異なる次元で展開されているということを見出した。ただ、世代間を通してのトラウマの伝達というテーマに取り組みながらも、そこに、三次的把持への迂回を通して成立する後成系統発生のプログラムを見出すことはなかったのだった。

*1:ジークムント・フロイト『自我論集』,竹田青嗣編,中山元訳,ちくま学芸文庫,159頁

*2:ibid,p.165

*3:ibid,p.172

*4:むろん、フロイトが生きていた時代においては「遺伝子的なもの」は一種の仮説的単位でしかなく、その「正体」が実際に明らかになるのは、フロイトの死後、ワトソン/クリックによってDNAの二重螺旋構造が発見される1953年まで待たなければならなかった。

*5:フロイトは「意識は記憶の痕跡の代わりに発生する」と述べているが、このフロイトの定式は「意識は痕跡において反復するものの抑圧を通して発生する」と容易に言い換えることができる。ibid,p.143

*6:ジークムント・フロイトモーセ一神教』,渡辺哲夫訳,ちくま学芸文庫,二〇〇三年,93頁.

*7:“De la mis?re symbolique 2”.p.244.