[与太話] 丸の内ソープ・オペラ

学校からの帰り、いつもより早かったせいか席がすこし空いていたので座ったのでした。で、本を読み始めたのですが、そのうちにハッとしました。匂うんです。何の匂いかって、そりゃきまってます、風俗の匂いです。池袋の新文芸座に行く時にだけ仕方なく通る風俗街から匂ってくる、あの独特の石けんの匂いです。素早く左右をチラ見すると、どちらも若い女性。僕は思わず心の中で叫びました。「犯人はこの中にいるっ!!」

池袋に着くまでは十分弱、残された時間は少ない。気取られないように慎重に、かつ素早く情報を収集する。右手の女性は薄緑色のハーフパンツで先が折り返されており、そこから伸びる足は白いがやや太い。太いにもかかわらす足を出す・・・!?「犯人かっ!!」

左手の女性はジーパンだが、足元に大きな袋を二つ抱えている。どうやらいろいろと買い物をしてきたようである。同時に手も目に入ってくる。すこし地味な赤いマニュキュアはいいとして、手がすこし荒れている。もしや毎日のローションで・・・!?「犯人かっ!!」

と灰色の脳細胞を駆使して推理を重ねていくのですが、どうにもラチがあきません。決定的な決め手がどうにも見つからないのです。と、そのとき、かつて老師の語った言葉が頭の中に甦ってきたのでした。「心じゃ、本当の眼は心にある、心の眼で見るのじゃ!!喝っ!!」。

僕は呼吸を整えながら、ゆっくりと眼を閉じました。

目の前に立っていたおっさんの姿が消え、電車の中のささやかな喧噪が遠ざかり、皮膚も透明になり、鼻の粘膜だけが暗闇の中に浮かんで、ただよってくる石けんの匂いをつかまえようとする。右か、左か、右か、左か。と、当然ながらそのうちに眠くなってまどろんでしまう。

プシューという音とともに眼を覚ますと電車は池袋に着いている。しまった!両隣の女性も立ち上がって去っていこうとする。こうなれば最終手段をとるしかない。秘技、直嗅ぎ(Jikakagi)である。ドアから出ていこうとする女性の後ろに回って、さりげなく二人の匂いを確認していく。

おかしい。ぼくは全身をこれ鼻として二人が発する匂いを確認していったのだが、どうしてか二人とも石けんの匂いがしない。電車の中とは違い、外では空気が激しく動いている。なにしろ降車した乗客たちが方々へと交錯していっているのである。その空気の流れで、アリアドネの糸たる石けんの匂いが拡散していってしまっているのかもしれない。なんたる不覚、何たる未熟!ぼくは犯人を取り逃がした自分の無能力を責めました。

ショックで立ち止まってしまいましたが、仕方がないと諦めて、再び歩き出す。と、その時でした。匂ったんです、あの石けんの匂いが。そしてその匂いは紛れもなく、自分のすぐ脇から発せられていたのでした。ぼくは光の速度でそちらを見ました。

なんとそこでは、五十歳くらいのおっさんが僕の横を通り過ぎようとしている。そしてそのひなびたスーツには見覚えがあったのでした。それは、犯人を捜して両隣の女性に気を配る僕の前に立っていたスーツでした。

犯人は、風俗帰りのおっさんであったとさ。

めでたしめでたし。