● ボードリヤール 『物の体系』 D 物と消費の社会=イデオロギー的体系
◎ モデルとシリーズ
・・・実体的な範型に依拠する「スタイル」から、内在的な差異の戯れのうちにある、シリーズとモデル(「渇望の運動」P177)の弁証法への移行。
1、ここで述べられている弁証法は、●マルクス 『資本論』の冒頭における価値形態論と通じるだろう。
2、その一方で、両者の間には差異がある。
3、それは、価値形態論では貨幣という形での価値準拠点が決定的に構成されるのに対し、ボードリヤールのシリーズとモデルの弁証法は、そのつどのアドホックな価値が創出されるにすぎない。
4、ここではその両者をつなぐ媒介するものとして、ラカンの「ファルス」が機能するだろう。事実ボードリヤールは、●『象徴交換と死』では「ファルス」に言及していた。
→ゆるやかな貨幣

◎ 自由と欲望(「人間化」)
「われわれの選択の自由は、文化体系の中にわれわれが入ることを強制する。」P173
・・・使用価値ではなく交換価値としての商品を欲望するということは、選択の自由の出現と平行的なものであり、そこには自由だとされる主体による選択という契機が不可避に介入する。
=この弁証法は、平等と自由という語彙に依拠する近代個人主義と資本主義との産物であるといえる。
→ ● P・D・マーシャル 『有名人と権力』P337なども参照
「他の自動車ではなく、この自動車を選ぶということが、おそらくあなたを人間化する。しかし特に選ぶ、という事実が、経済秩序のなかにあなたを位置づける。《ほかのひとたちからあなたを目立つようにするために或る物を選ぶという事実だけで、それ自体が社会奉仕である》(S・ミル》」P174
・・・ここにはアイデンティティーと経済とのつながりがはっきりで現われており、さらにはそれが他者の眼差しとの関係であるということもうかがい知ることができる。
1、自由とはすなわち、選択せよとの命令に直面しているということ。
2、その「呼びかけ」(アルチュセール)に応答することで主体が構成される。
3、そしてその主体とは欲望の主体である。
・・・この議論の出発点としては、ミードのIとMeも考えられる。ポイントとなるのは、シンボリック相互作用論全般に見られるデカルト的主体概念という前提であり、その枠組みとラカンの枠組みとの断絶点を適切に示すことだろう。
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・・・総じて、観念にすぎないものとしてのモデルを、欠如としてラカン的に位置づけることが枢要となりそう。
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● ストラウス 『鏡と仮面』 4章 アイデンティティーの変容
◎ 自己成就的予言(マートン
・社会的行程のなかで出会われる特定の出来事が社会における名付けのなかに組み込まれうる、という状態が想定されうる。このような状態においては、個人において転換を要請するものとして出会われる予期せぬ出来事は、そこにすでに社会的に与えられている名付けに寄りそって着地する。つまり、すでに確定されている社会的な道筋にそって、個人における転換が遂行される。
1、このような名付けの相伝が可能である空間を、領域的空間と呼ぶことができるだろう。
2、一方で、既存の名付けに収まらない事態が単発的にではなく頻出してしまうような空間を、脱領域的空間と呼ぶことができるだろう。
3、そしてこれらは、大文字の他者というもののプレゼンスの様態の変化として理解できる。
・・・では、脱領域化した空間において、大文字の他者はいかにして構築されうるのか。

◎ 指導すること
・「自己成就的予言」が成立する領域的空間においては、先輩は、個人がやがて出会うであろう出来事の意味をしっている存在としてあらわれる。その出来事はかつて先輩によってすでに経験されているはずであるのだ。ここに、先輩が「知っているはずの他者」として現われてくる余地がある。
→ ● ラカン 『精神分析の四基本概念』 「転移」の概念。
・・・もちろん「知っているはずの他者」という構造自体は普遍的であり、ポイントは、「知っているはずの他者」が特定の社会装置がそれぞれ構造的に先輩という形で輩出しうる、という事態である。
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・・・そして、脱領域化した空間における「知っているはずの他者」として、有名人というものが想定されうる。
→ 「転移とは無意識の現実の現勢化である。」(『精神分析の四基本概念』P190)

◎ 語彙
・ストラウスによる語彙というものへのこだわりは、シンボルから出発するシンボリック相互作用論にとって本質的なものだろう。その具体的な系譜としては、ミードの「自己表出」にまで遡りうると思われる。
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・・・ポイントは、主体とシンボルとの関係を、「自己表出」としてのMeから、ラカン的なトラウマとしてのMeへと置き換えることであり、またそのトラウマから出発しての欲望の弁証法を考慮に入れること。
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・・・さらに、ストラウスが名前にこだわるという点も、一緒に考えるべきだろう。つねにすでに与えられてしまっているものとしてのMe。