覚書

このところいいイメージがやってくる昨日はバイトに向かう途中に一つのフレーズ概念を緩めるって言うのがよかった一気に広がった底から子供のイメージになりレヴィナスの繁殖せいのイメージが再びよみがえるこれはもう考えていたことだけどあるとき風呂に入りながらはっきりと意識したそれから子供の瞳これは重要であるのと同時にイメージとしてとてもすきもちろんこの場合の子供とは物理的な子供という領域にはとどまりませんつまり何事かを見つめる僕らの瞳は常にいくばくか子供の瞳であるので巣で今日はさらに衝撃的だった東上線池袋駅準急を降りて会談を下りながら出すら間の象徴界パロールで成り立っているがしかしそれはデリダのえくりちゅーるで置き換えるというかいわゆるあの脱構築というやつが作用しうるのではないかバーンとは尾らきらめいて次にはドブレの目ディ尾路地ジーにつながりましたそして明治通りの道すがらです省庁会は物質でできているがつんですね絵でさらにあるいえたしか鬼子母神の横あたりを歩いているときです子供は象徴界を最小超過するという感じだということを書いてみて気づくのは僕の場合はあるアイデアはそれを思いついたというかそれを明瞭に意識した場所と結びついて記憶されるって言うことですそういう門なのかなあ