無邪気

無邪気さはしかし例外なく憎まれるのであってたとえ愛されうるのだとすればそこには常に物語という汚れがともにあり始まりと終わりの予定調和のなかにわずかの地位を与えてもらうだけなのであってみれば私たちが無じゃいさにかける期待といったものははじめから何かを履き違えてというのも私たちはつまるところ無邪気と貫t何にというというかそれこそ無邪気に呼びつけた物語のほうを喜んでいるのであるからすでに園喜びのなかで無邪気さは殺されているのでありその殺害の末の裁断の上にわれらが安泰が気づかれるのであってみればたとえば無邪気さを礼賛してみるなどということは傲慢というか筋違いというかむしろ醜悪なのであってそれにそもそも無邪気さと呼ばれうる存在祖そのもののうちに物語が強烈に敗退しているという事実が先ずは否認され園委任の上に汚れひとつない無邪気さというひょ勝が気づかれて折りそのことはたとえば子供というものがあまりにも請求に社会を模倣するという店にも現れていてたとえば精神分析などでは象徴的に父という言葉がつかわっるわけだけど無邪気さが無邪気さであるという優艶のひとつには父を受け入れる園手はずのあまり煮物請求憂さにもあるといえるように思われるから僕はむしろ物語が立ち上がる園瞬間にこそ無邪気という名を与えたいのだが思ってみればそこでもまだ相変わらずに無邪気という言葉を使ってしまうということにはなんとも歯がゆいジレンマがあったりもしてこういう風雨に読点というか丸をつけずに書くということを僕は入沢康夫の季節についての試論という文章を読んで思いついて試してみようと思ったのはつまり論理というのはこきざみなっ簡潔という痙攣を伴いながら線的に積み重ねあげられていくのだということに気づいてならばこの試みの最終地点においては丸は使ってはいけないというか丸を前提とした簡潔へ向かっていく文章を避けなければならないと思ったのと同時にこういう筆記携帯では園回避はきわめて容易でそういえば会話というものは元から丸がないというか完結という痙攣性は本来は具わっていないんだなあと今気づいてしだでそこに無邪気さということももしかしたらかかわっているのかもと今もいながら