能動と受動

また備忘録フロイト四で思ったこと能動と受動についてフロイトはいっていました子供は情動的に体験したことを能動の形で発散しなおすとたとえばおままごとや人形遊びと言うのは自分が親から受動的に受けているこもごもの世話を能動的に発散する行為であるとの子とたとえば学校やどっかでいじめられたりするとあるいは歯医者で口をあけさせられいろいろ弄繰り回されるとそれと同じことを弟や妹にするということもまた同じ類の効いたし言い割れてみれば層化と思いつつそういえば今までそんなこと考えてなかったなあと気づく出ふと思ったのが旅ということもう子供ではないけどまあ人は旅にいったりするわけで巣で旅に出るっていうの浜ああ能動的な行為に思えるけど実際にそこで受け取られるいろいろの体験手手いうの破綻に一方的に手に入れるものというよりは一種のサプライズとして受動的に受け止められたりする門だったりしますそこでたとえば旅と良好って言うものの違いを簡単に定義してみると詰まりりょりょこうというものにはある目的というものがあってまあ南下の建築物やある絵を見に行くとかでもいいんですが園目的に沿って園目的を達成するというベクトルに貫かれていくのが旅行で旅っていうのはまずどっかに行くっていうさまよいの意思だけあってそこから何が起こるかはいわば身を預ける物だってことにしてみるとするとつまり旅においては能動と受動というのが奇妙に絡まりあっているわけ出でまたそこでフロイトが行っているような受動から能動への流通というものを考えてみると旅先で受け止められたある経験が能動という形で新たなたびという風にアウトプットされるという風雨に考えてみるとするとつまり個々には一種の循環が生まれるのであって多くを受け止めれば受け止めるほど人はまた新たな一歩を踏み出しまた何事かを受け取りまた踏み出すといった際限のない進展が繰り返されそうだな旅に限らず人生って言うのもそういうものかもしれないというか人生をひとつの大きなたびにたとえるのだとするとここに正当性があるんだなつまり受動と能動が互いに互いを生産しあって次第に大きくなっていくという運動そこでいろいろなことが生まれていく人間関係でも書かれたものでも建築物でも子供でも祖いういう進展には常にこういった能動と受動が絡み合っているだから逆にそれが悪循環になるということも当然考えられるわけですつまり何も受け取らないから閉じこもり閉じこもるから何も受けたらないで縮小再選さんの挙句にたどり着くのは区居名一点ってことですねで僕は拡大再生産のほうのほうの能動と受動の刺激しあい何かを生み出していくという運動を考えうるとき園両者がひとつのスープみたいに解け合っている状態としてたとえばフロイトだったらリビー度としてイメージして満たす今は