引用

引用って難しいですそういえばこうやって書くと先ず指の位置からしてかぎ括弧を打つのが難しい品により引用の場合変換がぱっぱラッパーだともうその時点で致命的です文字通りって言うそのことに引用のインパクトというか意味はあるのでしょうとすればそのことから逆算的に考えられるのはこうやって書いている辞典でもそれははっきりと誰が書いたものたとえば僕が書いたものって言うう風雨には主張しにくいって言うことにもなるたとえばここで書かれた文章について僕はかくかくしかじかに考えているんですこれは僕が考え出した僕独自のことなんのですなんていうう風雨に主張する気にはとてもなれないというかだって意味のわからない部分が多々あるし基本的にみょうちくりんの文章だからつまり誰これこれの文章が誰かのものであるという場合にはその背後にひとつの精神が創造されるわけだけどこういう風雨に書いていくとその精神への直線的な道筋がかなり強烈ににごらされてるってなんかこういう風雨に書くと安っぽい文芸理論みたいで矢だなあ昨日派中プレシャン負ってこの名前は絶対変換されないだろうな魂を救えっていう映画を見たなんか拡張高利というか見せられてしまったすごいなあこの雰囲気は何なんだろう空気としてはエリートの空気なんだけど日それぞれのこまのつながりとかがなんかミョウに乾いた非人間的な感じなんだけど出もちゃんとストリートいうか流れは伝わってくる小難しくもないんだがミョウに深遠というかその画面の乾いた感じ外と角絶対手言うものを創造させますなんだろうこの絶対ってそういえばいまファウストを読んでいますまだはじめのほうだけど池牛修の翻訳言い値エコいつの翻訳自由連想方は楽しいなあ錬金術って何でこう魅力的なんだろうすべてを知りたいっていうよっくう若さの持つ請求さその末にある倦怠アンチテーゼとしてはたとえば坂口安吾堕落論かそういえば訓寺の冗談は高橋和美を連想させるあのいい法的なというか直線的な高橋和美忘却への憎しみをとことんまで貫いていくそれに対して訓寺は忘却というものを考えるその軽やかさ飄々とした感じユーモアやっぱこれは島国と大陸との差なのかなあそれとも人間の器が違うということだけなのか血気にはやった人間あるいは世代ならば冗談のような距離感は受け付けないで皮膚でそのまま高橋和美を受け入れてしまうのかもしれないそんな時代はいやで巣軟弱でもまあいいかなあとりいい区はやっぱ無邪気さってすごいしねえひとつ引用したい文章があるんだけどここじゃ無理だ品麻生出したのところに引用しますコメント