速度

吹く笑いでちゃんとしたかおが出来上がっても面白くないのと同様に、こうした筆記でもやっぱり何か得体の知れないことが起こっていないとやりがいがありません。いまのところ、ワープロ変換に関してはそれほどの野放図はお子哀れな層ということがわかってきました。こういう場合、ワープロ変換の傾向に手を加える手段というのはあるのでしょうか。まあ、この方面についてはとりあえずおいておくことにします。ということで、残る手段として今のところぼくの頭に浮かぶのは、キーボードのうちそん時という要素です。この要素にはいくらか鮮やかさにかけるところもあるように思いますが、どうでしょうか。いずれにせよ、これもひとつの野放図のチャンスだ、と僕は考えています。出、昨日も書いたと思いますが、キーボードを打つ速度を意図的に上げていけば必然的にうち損じの割合も多くなるでしょう、ということを考えています。まあそれはそれとして当然のことで、それゆえちょっと図つ試みてこうとは思っているのd菅、このとき、キーボードを打つ速度の上昇と、キーボードのうち損じの非違率との相関関係というものには、何か深遠な連想を誘うものがあるように思われてなりません。そもそも、人間にとって手は、速度というものは相対的なものではけっしてないように思えます。もちろん、いくらかは順応ということも可能ではあるでしょうが、しかしそれにも限界はあります。また、速度能上下というのは単に了の類イであるのみならず、それぞれの速度にはそれぞれ独自の質、というものが備わっているように思えます。たとえばカーニバルというイメージでは、速度は必然的に上昇します。その反対のイメージとしてはたとえば葬式というmの野が考えられると思いますが、そこでは速度は可能な限り抑圧される、という風雨に思います。というよりも、あらゆる儀式は速度の抑圧によって成立する、戸も言えるかもしれません。とにかく、速度にはそもそもからしてある質というものが宿っていることは間違いないわけです。ここに派生的なイメージも考えることができるでしょう。で、総括的にいえるとすれば、速度の上昇はある混沌の方向への志向をもっている、という風雨にまずは言えるかもしれません。そして実際、キーボードうちにおいても速度の上昇は混沌を招き入れる際のシャーマンのようにして働きうるわけです。これらのことを踏まえて、さらに夢想を飛ばします。ポール・ヴィリリオは絶対速度ということをいいました。これはつまり、速度の上昇によって空間的距離がまったく意味をなさなくなるという速度の上昇の位置地点のことを逝っているわけで、たとえばインターネット上でのつながりでは、そこに速度というイメージを当てはめるの野が正しいのかはわかりませんが、少なくとも空間的距離を無化するある絶対性がその和っているように思えます。そのような用語法から類推して、ここでも一種の絶対速度というものを考えることができるかと思います。つまり、キーボードを打つ祭の速度が、ある絶対性へと到達してしまう地点です。その地点ではどのような事態が起こると考えられるのか。そこでは、思考の速度の極限をなぞるようん形で、紀ボードを打つ速度というものも考えられます。で、これはかなり恣意的な論理かもしれませんが、そのような速度においては、頭の中を流れる音のつながりと、実際に打つことのできるキーボードの表音文字とは、まったく一致し得なくなります、そこで一致することができるのは、頭の中の音の数と、打ち込まれる表音文字の数だけです。速度のひとつの極限において、ここだけ廃一致することができるのですが、それ以上は不可能である、つまり、頭の中の音と実際に打ち込まれる音とがまったく関連性を持ちえなくなる次元、これをなんとなくぼくは空想的に絶対速度として想像します。しかしこのような空想は一体どこに向かっているのでしょうか。わかりません。とにかく、この絶対速度での試みが可能であるのだとしたら、そこでの思考というものは絶対的に孤独なものである、とひとまずは言わざるをえません。というもの、その思考は原理的に定着不可能だからです。ただそのい法で、その孤独にはすでにひとつの亀裂が入っています。というのも、意味上の、あるいは音上の関連は持つことができないにしても、やはりその思考の流れはなんらかの表音文字を打ち込ませていくからです。とすれば、ここには痕跡成らぬ痕跡が残される、と背伸びをしていうこともできるかもしれません。少なくともぼくは、眼を開いた後にそこでなにかが行われていたこと、つまりぼくの脳髄の中でなにかが考えられていたということだけは、そっとうかがい知ることができるわけです。とすればそれハムではなく、何かではあるのだとぼくは思います。目をつぶっていると、ちょっと前に自分がなにを書いたのかもすぐ忘れてしまいますね。