まだ時勢

日記ってのはなにを書くものなんでしょうかねえ。これまで欠いた経験がないからよくわからないのです。画、今のところは、ここで繰り広げていこうと思っているのは単なる日記ではなくて、ソフトな実験というか、日々のよしな仕事を書き付けるというよりは、もっと抽象的にで方を伺うという感じのほうが強いので、まあ日記っぽくならなくても仕方ない、とは思っています。で、今のところはひたすらない生をしていますね。まあやっぱり十文がなにを指定rの角来は知っておきたい。で、今しばらくこのようなことは続いていくでしょう。つまり、書く、というよりも、盲目に核というこの試みがなにを意味しうるのか、という一種のメタの作業です。で、今日はハイパーリンクのことについてすこし考えてみます。ぼくははてなというものにはこれまでぜんぜんなじんでいなかったけれど、それなりになんとなくのイメージはありました。つまり、何かわからない言葉だとか、詳しく知りたい言葉だとかを検索に書けると、その言葉がどのように使われているのかという、生の例文がはてなを通して提示される、というものです。つまり、ビビッドな例文驟雨といった感じでしょうか。いちばんわかりやすい例では、種種の固有名詞というものを挙げることができます、何かで知った固有名詞の正体を知ろうと思い検索にかけると、その固有名詞についてのさまざまな語りがあらあwれる。ちゃんとした辞書なんかだと、古典や南下からの権威ある例文が引き合いに出されるわけだけれど、はてなではまだ生成と上の用例が出てくるわけだから、言語というものがつねに生成途上であるという、まあ当たり前といえば当たり前の事実が皮膚感覚として伝わってきます。で、そのような言葉を形成する網目としてのはてなというものをとりあえずイメージしてみたとき、ここでの様な筆記はきわめて奇妙な、一種のエイズウィルスのような地位にある、ということがなんとなくわかる。意図されたとおりに変換されたとするならば、そういった伝染運動は始まりえないですが、たとえばまったく関係ない音のつながりがあるひとつの固有名詞の音と一致してそのように変換されてしまうということが容易に想像されます。ためしにやってみましょう。こんなことで廃刊とぼくは思っているのです。どうでしょうか、ドイツの哲学者の、間と、は変換されたでしょうか。で、もし、間と、で変換されたとして、誰かが、間と、のリンクでたどってきてその文sY法にぶつかるとすると、そこにはひとつの固有名詞の同様という契機が、かなりはっきりと現われてくるように思えます。もちろん、ここはそういう場所だから、真に受けてはいけないと考えて読み飛ばしてしまうことも可能でしょうが、原理的な可能性として、もしあらゆる筆記行為がこういった筆記形態をとるとするならば、あらゆる語彙の安定形態は吹き飛んでしまいます。人間が読むならば、もともと意図されていたであろう門限を想像して回復させることもできるでしょうが、はてなの廃あーリンクという機械的過程においては、そのような回復はありえません。そこでは、文字通り、というオリエンテーションが存在するだけです。そしてぼくは、そこに生じうる、文字通り、ということにおいて、ある独伊のコミュニケーションというものを想像します。それはどのようなコミュニケーションでしょうか。少なくとも、ある日人称の次元で進行していくコミュニケーションであるといえるので、たとえばハーバーマスのコミュニケーション理論などはお呼びではありません。むしろ、安直に考えるならば、栗捨てヴぁのインターテクストが連想されそうですが、しかし、ここでは機械性というものが、文字通りワープロあるいはキーボードという機械性に媒介されているわけで、そこにはまた新しいビジョンが見えてきそうです。そして何よりう羽陽であるおは、こうやってぼくが目をつぶって指を動かしている次官そのものに青い手は、そのようなコミュニケーションは存在していないとどう団であるのです。インターテクストの場合は、少なくとも言語使用者と言語のあいだで、なんらかのシンクロというものは生じているのでしょう。ここでは時間においてはっきりとした断絶があります。この断絶を通してなにを考えることができるのでしょうか。まあちょ美著美観がえてみます。