反省そのイチ

亡者の記憶と銘打って、目をつぶっての日記を始めてみたわけですが、ひとまず導入を書いてみて気付くのは、意外とまとうに変換されてしまうんだなあってことでした。なんっかもっとは茶めちゃな感じになるのかと思っていたのに。あとキーボードのうち損じもそんなになく、悩ましいことイ、ただの変換ミスがいくらかの場所に見られるだけ、というような文章にも見られうる。これはちょっと気分が悪い。しかしまあ反省してみると、ここに存在する悩ましさっていうのもすべて事後的なものでしかありえないわけですね。つまり、こうやって書いている時間の中では、そのような変換云々にまつわる悲喜劇なんてものはまだ開始しておらず、ただただ音の連なり。で、これで終わったと思って指を留めて眼を開けて、そこで始めて齟齬だの機械だのすれ違いだのが生じるわけです。こういう事後性の感覚っていうのも、こうやって裳を閉じている間にだけ見えてくる部分もある、ということをいま悟っています。それにしてもこの時間とはどのような時間なんだろう。それが完全な透明性ではないってことは明らかです。考えるという場合でもそこには言語が綱に介入してくるわけだし、ここではそれをキーボードに逐一打っているわけで、そこにはよりはっきりとした言語化という敬s期が入り込んでいる。しかしその一方で、何か透明な思考、というような連想は誘われてくる。まあおそらく、この透明性がどこまでも透明なものとしてのみ了解されてしまうのだったら、そこにはやはり深いかごが生じているとしかいえないのだろうけど、こういう亡者の記憶においては、眼を開けばただそれだけで、かごがどこまで深いものであるのかっていうことが一目瞭然。それにしても、こういった名があれの全体、つまり、ひとつの透明性の感覚と、あまりにも深いかごの暴露、といった純紀には、二人の人間が存在している、というようにどうしても感じられてしまう。言い換えれば、透明性の感覚と、文字上でのかごの認識というのを、一人の人間の頭角のうちに回収するっていうことを、想像することができない気がします、たぶん。まあおそらく減少額では、錦の二重性というか、この場合は自己と他者っていう区分があるんだけど、そのような二重性は理解の出発点としてあるんだと思いますが、この二重性の一致において認識なり意味なりが生ずるのだとしても、ここではひとつの錯誤なりかごなりの暴露において、ひとつの移住性が要請される。この違いは何なんだろう。しかしなんだか袋小路に入ってきた気がします。別のことを書こうと思っていたのですが。忘れないように書いておきますが、づやればワープロのうちそん時をふやすことができるのか、ということについてです。うちそん辞が多いほど、ワープロ的契機、というものが前面に出てくると思われるので、そのための方策を考える、ということです。いまのところ思いついているのは、キーボードを打つ速度を早くする、ということです。そして、この速度の上昇と打ち損じ徒の関係には、何か形而上学的な連想を誘発するものがあるようにも思われるので、その領域をふらふらとっさ迷ってみる、という感じです。目を閉じて打っていると、まさにさまようっていうおとがぴったりとくるきがします。ではでは