痕跡とプログラム

『インターコミュニケーション』という雑誌の50号と51号に載っていた稲葉振一郎氏の「公共社会の基本的枠組み」という文章を読みました。50号でなされているのは主にリベラリストコミュニタリアンの対立の稲葉氏流の整理で、「へえ、なるほどねえ」と思っただけなんですが、51号では人工環境やら道具の話が出てきて、これがきわめて面白かった。公共性を人工環境と結びつけ、その人工環境の構成素として「建物」、「乗り物」、「道具」を見出し、その重心の変化を通して公共性の条件の変化を見出していく。これは素晴らしいと思った。さらに、コミュニケーションの次元における言語の地位を相対化し、接続を自己目的とする音声のやり取りと、言語特有の形式化作用を区別しつつ、コミュニケーションの原的場面をまずは前者に見出し、後者をコミュニケーションの歴史的変遷のうちに特定の段階へと相対化する。このあたりも素晴らしいと思いました。

稲葉氏がどういう議論を全般的に展開しているかについてはぜんぜん詳しくないのですが、ブログなどを拝見すると社会と政治と経済といったあたりが主戦場で、さらに経済的リアリズムを考慮しない空論に対する批判的姿勢というものが基調的に見られるように思われます。それで、稲葉氏に対して述べたいと思ったこと。それは「技術とは何か」という技術論も並行して追っていって欲しい、ということでした。稲葉氏は、進化論や認知科学、また言語の発生史などにも広く目を向けているにもかかわらず、技術固有の次元に関する議論についてはまったくコミットしていないように思われます。しかし、人工環境の問題を考えるうえで、技術の問いを避けて通ることはできないと思います。その点への無関心が、きわめて素晴らしい稲葉氏の見通しにその方向での展開に関しての限界を課していると思われました。

という感想から、技術論へ向けての稲葉氏への誘い水を出す、という動機に基づいてこの文章を書いています。どこにトラックバックを送るべきか迷ったのですが、ブログを遡って読んでみても技術論に触れる議論はちょっと見つからなからかったので、とりあえず最新のはてなの記事に送らせていただきました。不適切であれば変更します。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
経済的な文章にするために箇条書き。

1、目的
ベルナール・スティグレールという技術哲学者の議論から僕が抽出した「痕跡とプログラム」について説明している文章を読んでもらうこと。

2、その文章を読むことの効能
人工的環境を構成するそれぞれの技術的客体を痕跡と捉え、それらの痕跡がどのようなプログラムによって生み出されているか、という観点から理解するという視座を得ることができる。
ex:稲葉氏は次のように書いていました。
脱属領化されたモノたちの集積を一つのシステムに変えるのは、それ自体可視的な空間性(いちばん単純には、まさに地理的に局在し、同じインフラを共有する同じ都市のなかの建物間、構造物間の関係性)ではなく、それとしては可視的であるとは限らない、作動レヴェルにおける機能的な関係と、市場経済に支配された所有関係です。前者は都市の物理的な構造の中に可視的になりますが、後者はあくまでも抽象的、観念的な体系です。つまり古典的な都市においては、公共性は都市それ自体の物理的な定在のうちに可視的になっていましたが、近代アーバニズムのもとではそれは不可視的になっています。実際に具体的に存在する土地建物の多くは、私有財産、それどころか商品になってしまっているからです。」51号,p186
ここでの可視的と不可視的という対立項を痕跡とプログラムという項に置き換えることによって、よりすっきりとしたヴィジョンがえられます。いつの時代においても、建物はそれを生み出したプログラムの痕跡です。で、プログラムはそもそも可視的ではありません。封建性プログラムによって生み出された建築物という痕跡は可視的ですが、封建制プログラムそのものは可視的ではありません。このことは、資本主義プログラムの痕跡である商品が可視的であるのに対して、資本主義プログラムは不可視的であることと同じ事態です。つまり、可視的、不可視的という対立項には明らかな限界があるということです。問題は、それぞれの痕跡を生み出すプログラムが変化している、ということです。

3、文章の属性
全体でだいたい原稿用紙1000枚程度からなる修士論文のごく一部の抜粋。

4、読み方
だいたいは独立して読めるものですが、それでも基本的にはある全体のうちの部分ですので、その全体をそこはかとなく参照している部分がありますが、そこは無視する。

5、その他
以下に張り付ける部分は「痕跡とプログラム」という概念セットのごく初歩的な説明に当てられた部分であり、そこに依拠することで可能となる議論は多岐にわたります。稲葉氏の『インコミ』所収の文章に関していえば、物質性の問題、「共同性」と「公共性」の問題、言語の問題などが関係しますが、それらの議論への道筋をつけるためには別の箇所も参照する必要があります。もし読んでいただけるようでれば、必要な箇所も追ってアップしたいと思います。

6、最低限の文脈
スティグレールは『技術と時間』の一巻で、遺伝的記憶の層である系統発生、生物個体の神経的記憶の層である後成系統発生に加え、人間においては技術の次元で相続されていく後成系統発生というものが存在している、と主張しています。さしあたり、そのような進化論的なヴィジョンが寝んンというにある、ということだけを踏まえていただければ大丈夫です。

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記憶全般を捉えるための一般的な概念として「プログラム」を取り上げたのはアンドレ・ルロワ=グーランであった。スティグレールはそのプログラム概念を自身の技術哲学の核心に取り込んでいる。「プログラムprogramme」という言葉を分解すれば「あらかじめpro?書かれたものgramme」となり、それは文字通り反復の説明である。プログラムとは反復の指示を書き込むものであるのだ。それゆえハンマーには特定の身ぶりがプログラムされている、と述べることができる。ただしそのとき、プログラムによって書き込まれている反復とはハンマーそのものの反復ではなく、実際にはそのハンマーを用いる身ぶりの反復である。ハンマーが反復することができるのはそのハンマーを使用する身ぶりと結びついた時のみであり、そこではハンマーとそれを使用する身ぶりとが、反復する《拡張された器官》とでも呼ぶべきものを形成することになる。いうまでもなくその形成もまた代補の論理に従う。ハンマーと結びつく身ぶりはハンマー以前には存在しなかったものであり、人間の身体は「外」の物質へと迂回することですこしずつ新しいプログラムを作動させていくとともに、《ハンマー=手》という《拡張された器官》を次第に「分泌」していく。
 ルロワ=グーランがプログラムという概念を用いることでまず行なっているのは、人間と動物、知性と本能という二項対立を棄却し、それらをともにプログラムという概念を通して一元的にとらえようとすることである。『身ぶりと言葉』においてルロワ=グーランは次のよう述べている。

「種の記憶として表現される本能は、それによって生じる動作の連鎖がどの程度一定して観察されるかに応じてのみ、現実のものとなる。それゆえ問題は、本能と知性のあいだではなく、二つのプログラミング方式のあいだの対照として捉えられる。その一つは、昆虫において、プログラミングが最大限に遺伝的に予定されているということであり、もう一つは、人間においては、遺伝的に未決定にみえるということである 。」(アンドレ・ルロワ=グーラン,『身ぶりと言葉』,荒木亨訳,新潮社,p220)

ここでルロワ=グーランは本能にのみもとづいて行動する生物を代表するものとして昆虫を挙げているが、それは、神経的記憶は人間以外の生物においては世代を超えて伝達されることがないので、人間とそれ以外の生物との対比は最終的には人間と昆虫との対比に至りつくからだ。昆虫においては行動は遺伝子を通して最大限にプログラムされているのに対し、人間の行動は遺伝子を通してのプログラムには還元されない。しかしそのことが意味しているのは人間の知性においてはプログラムが存在しないということではなく、人間は遺伝子とは別の仕方においても行動をプログラムしているということである。

「道具と身ぶりの共同動作は、行動のプログラムの登録された記憶があるということを予想させる。動物の水準では、この記憶はすべての器官の行動と一体化して、技術作業はいわゆる本能的な性質をおびる。すでに見たように、人間において、道具や言語活動を自由に取り外せるというのは、集団システムの生存と結びついているわけだが、このことは動作のプログラムを体の外部に置くことを決定づける。それゆえ、今日の社会において、道具だけでなく、機械における身ぶり、自動機械における動作の記憶、エレクトロニクス機器のプログラミングにまで達するほど推し進められた動作の解放を特徴的に示しているもろもろの段階を辿ることが問題なのである 。」(ibid,p234)

人間は技術的客体を通して行動のプログラムを身体の外部に置くことができる。たとえばハンマーは人間の身体の外で行動のプログラムを組織する。いうまでもなくこの外在化されたプログラムの体制がスティグレールによって後成系統発生と呼ばれているものであるが、そのことによって人間は、すくなくとも遺伝子的決定からのなんらかの自由を獲得することができる。むろん実際にそこで生じていることは、一般的に「自由」と呼ばれているものの獲得ではなく、新しいプログラムの体制の出現である。人間は遺伝的反復のみならず、それぞれの技術的客体において可能となっている反復のなかにも巻き込まれることによって行動をプログラムされるのだ。
 ルロワ=グーランはプログラムの概念に依拠することによって人間とそれ以外の生物を知性や本能といった対立項によってではなくプログラムの体制という観点から一元的に捉えることのできる視点を構築した上で、人間特有のプログラムの体制を技術を通してプログラムを身体の外へと外在化することに見出す。そしてその外在化を可能とするのは技術なのであるから、ここでは人間と動物との対立項のみならず、人間と技術という対立項も乗り越えられている。

「プログラムは、動物性と人間性とのあいだの分割と同時に人間性と技術性との分割をも等しく乗り越えることを可能とするという点において必須の概念である 。」(Bernard Stiegler, “La technique et le temps 2. La d?sorientation”, Galil?e,1996,p90)

問題となるのは、動物と人間、人間と技術を対立させることではなく、プログラムの概念に依拠することでそれらの関係を正当に区別しお互いに位置づけあうことだ。たとえば動物と人間はどちらもプログラムによって規定されているという点においては同様であるが、しかしそのプログラムの編成は大きく異なっており、その点で区別されなければならない。人間を構成するプログラムは「外」への迂回を通して構成されており、その点において明確にそれ以外の生物とは異なっている。そしてその区別をなす際に、技術の地位というものを正確に考察する必要があるのだ。
 遺伝的プログラムはたしかに個々の生物の身体の内部に書き込まれているが、しかしそれは同時に生物個体の「外」に位置するものでもある。というのも遺伝的プログラムはそれぞれの生物個体の死後も遺伝を通して変異を伴いながらも生き延びていくからだ。遺伝子とは反復される記憶であり、三次的把持におけるそれとは性格が異なるにせよ、それもまたやはり一種の亡霊である。生物的記憶もまたそのように一種の「外」を迂回するのであるとすれば、「外」との関係という点において、後成的系統発生の特殊性は正確にはどのように標定することができるのか。これまで技術の本質を説明する要素として物質への迂回という契機について幾度か触れてきたが、たんにそのように述べられるだけでは不十分である。人間固有の技術という次元に至らずとも、あらゆるプログラムは物質へと迂回する。たとえばルロワ=グーランは次のように述べている。

「蟹の鋏と下顎の骨片は、動作のプログラムと渾然と一体化しており、蟹の捕食行動はそのプログラムを通じて現われる 。」(ルロワ=グーラン,op,cit,p.234)

「蟹の鋏と下顎の骨片」はまさしく物質として形成されているものだが、それはプログラムと一体化していると述べられる。ここにおいて物質とプログラムとは相互構成的な関係、すなわちトランスダクティブな関係にあるものとして理解されている 。捕食行動のプログラムは、「蟹の鋏と下顎の骨片」というような何らかの物質を迂回することなくしては実現しえず、また「蟹の鋏と下顎の骨片」は捕食行動のプログラムに導かれることによって形成されていったものである。ここには一方が他方に先行する規定関係は存在せず、プログラムは物質への迂回を通して自己を少しずつ発展させ、その過程で物質もまた少しずつ形成し直されていく。ここに見られるのはたとえば形相と物質(質料)というような二項対立ではなく、代補の論理に従って展開されていく外在化の運動である。スティグレールは代補と物質との関係について次のように述べている。

「代補の論理、それはつねにすでに形式である物質の差異分化の論理である 。」(ibid,p.12)

あるいは志向性とヒュレーとを対立される現象学への批判として次のように述べられる。

「志向性のヒュレーは、つねに?すでに志向的である 。」(Bernard Stiegler “La technique et le temps 1. La faute d’?pim?t?e”, Galil?e,1994,p.259)

いかなる形式にも汚染されていない無垢な物質性に形式が刻印されるのではなく、物質はつねにすでに形式である。いかなる形式も書き込まれていない無垢な物質など決して存在したことはなく、一般に物質と呼ばれているものは実はつねにひとつの痕跡でしかない。彫刻を制作するために切り出される石は必ず何らかの形をもっており、それゆえつねにすでにその形を生み出したプログラムの痕跡である。彫刻制作はすでにそこにある形に別の形を上書きするのである。

「物が姿を現すのは反復において、あるいはその反復がそこから生じそこから出来しそしてそれを続行するような何物かの反復においてだけである。物が第一回目として現われたためしはない。このことが意味するのは、ある物が到来するのは道の上においてのみであり、あらゆる道がそうであるように、その道はすでに通行されているchemin?道である。図がそうであるように、なんらかの《すでに》の背景の外で形をなすような物は存在しない。そしてこの《すでに》は反復としての実践によってのみ構造化される 。」(Bernard Stiegler,“De la mis?re symbolique 2. La catastroph? de sensible”, Galil?e, p.146)

一つの石はつねにすでに遠大な反復の連鎖の末にそのような形をもつものとして形成されているのであり、そこに新しい形を生み出すことはその連鎖に新たな反復を付け加えることを意味する。可能であるのは反復が反復へと接続し、そのことによって形式が形式を書き換えていく運動のみである。その運動はつねに物質へと迂回しそこへと痕跡を残すことではじめて自己の書き換えを遂行することができる。遺伝子のプログラムが遂行しているのは、遺伝/変異/淘汰という三つの契機を経ることで自己自身を書き換えていくというプロセスであるが、そのプロセスはかならず物質へと迂回しそこに痕跡を残していかなければならない。その痕跡がさしあたりは生物個体であると言える。遺伝的プログラムは生物個体へと繰り返し迂回し、性を牽引力とすることで差異をはらんだ反復を繰り返していく。見出されるのは痕跡の絶えざる上書きの運動のみであり、その運動を通して物質とプログラムとがともに浮かび上がって来るのだ。
 問題は、その痕跡の絶えざる上書きが生じていく場である。仮にその場を人間の身体の「外」、と呼んできたが、その「外」の内実をより正確にする必要がある。というのも、技術はまさに身体へと痕跡を残すことが可能であるからであり、それに技術はその原初的な身ぶりの構成においてまさに身体こそを展開の場としてきたのだ。
 ここで技術がその「外」にあるとされる「身体」という言葉で意味されているのは、遺伝的プログラムの痕跡としての身体である。たとえば犬の身体は一般に遺伝的プログラムの痕跡であるが、しかし去勢を受けた犬の身体はすでに技術のプログラムの痕跡を残している。また第二部で扱う問題をすこし先取りしてしまえば、遺伝子組み換えテクノロジーを通して生み出された動植物の身体には遺伝子のプログラムと技術の次元でのプログラムとが混じりあっている。去勢などの外科手術的技術は遺伝されることはないが、遺伝子組み換え植物はバイオテクノロジーのプログラムのある部分を遺伝的プログラムのなかに組み込んでいくのだ。すべては痕跡であり、すべての痕跡はプログラムの痕跡である 。しかし、プログラムには種類があり、それぞれの痕跡はそれを生み出しているプログラムにもとづいて理解されなくてはならない。遺伝子組み換え植物は、それを生み出している遺伝子のプログラムとバイオテクノロジーのプログラムの二重の層において理解されなければならないし、去勢された犬の身体は同様に遺伝子のプログラムと外科技術のプログラムの二重の層において理解される必要がある。
 技術の特殊性は、遺伝子とは別のやり方で痕跡を残すという点にある。人間はもちろん同時に生物でもあるから、つねに遺伝的プログラムから出発するのだが、しかしながら技術を通して遺伝的プログラムとは別のやり方で痕跡を残してもいく。人間という存在はすくなくとも遺伝子と技術という二重のプログラムを通して重層的に生み出されている痕跡なのだ。スティグレールは次のように述べている 。

「生一般とはプログラム的なものであるが、みずからの死を節約する生la vie ?conomisant sa mort(《人間》)は、生命体のプログラムを、生のこの形式の起源的代補性を構成する人工的プログラムへと外在化することを旨とする記憶の解放の過程である。外在化されるものはその外在化の過程そのもののただ中で構成され、いかなる内部性にも先行されない。《代補の論理》とはこのようなものである。《差延》とは、そのただ中でプログラム的なものが、みずからを絶えず差異分化させながら生とはべつの方法で生(進化そして差異分化として)を追求する、そのような過程の働きである。」(“La technique et le temps 2”,p.11)

生とはそもそも死の節約であり、環境の直接性を身体組織によって遅らせることで生は自己を保つことができる。しかしながらそこで生み出される遅れはつねに一つの経済(?conomie)である。生は環境を遮断するのではなく遅らせるだけであり、その遅れを通して環境へと自己を開きそこからエネルギーを受け入れることによってはじめて存続していくことができる。そこに見られるのはつねに、閉じているか開いているかという二者択一ではなく、遅れを通して「閉じつつ開かれる」というひとつ経済である。ここにもまた代補の論理が働いており、節約(?conomiser)される対象はその節約を通して生み出される。つまり環境もまた痕跡であり、それはすべての生のプログラムによって重層的に生み出されている 。
 人間はそのエコノミーの体制を技術を通しても構築する、すなわち人間は他の生物とは別のやり方、すなわち人工物を通してもまた死をエコノミー=節約する。人間は遺伝子のプログラムと技術のプラグラムという二重のプログラムを通して死を節約しているのだ。人間の身体の「外」が意味しているのは遺伝子のプログラムの外であり、そこに生み出された痕跡を通して反復的に展開されていくプログラムが、後成系統発生の層である。そしてルロワ=グーランの議論を通してみていくように、その導きの糸となるのは手の解放の過程であり、人間はその解放された手によって遺伝子プログラムの外を文字通りつかまえる。それゆえさしあたり「外」とは人間の手がつかまえる「物」のことである。
 スティグレールははっきりとは述べていないが、プログラムの概念は人間と技術という対立項だけではなく技術と言語という対立項をも別の形で捉え直すことを可能とする。その捉え直しの具体的な展開は第二部において進めるが、ここではさしあたり一点だけ確認しておく。それは、他の生物に対する人間の種別性が後成系統発生の層へのプログラムの外在化にあるのだとすれば、その限りでは技術と言語とは区別されない、ということである。技術も言語もともに後生系統発想の層へのプログラムの外在化であるという点では変わることはない。このことが意味するのは、人間と動物との本質的な差異を言語の有無に見出すという発想が無効であるということである。強いて述べるならば、人間と動物との本質的な差異は言語の手前にある。たとえばルロワ=グーランは「言語活動と道具はどちらも人間の同じ属性の表現にすぎない」 と述べ、スティグレールもその主張を参照している 。人間の種別性は、道具と言語活動とをともに可能とするような次元に見出されなくてはならないのだ。ただし、道具と言語活動との関係についてのスティグレールの態度は両義的である。というのもスティグレールは、一方では上のルロワ=グーランの主張に賛同しながらも、他方では絶えず記憶技術に対する技術システムの先行性を確認しているからである。
 ルロワ=グーランは手と脳を結びつけて考えることで生物の進化を説明していた。

「体構造が手をいっそう自由にするのに向いている種は、また、その頭蓋が最も大きな脳を入れることのできる種でもある。手の解放と頭蓋穹窿の拘束の減少とは同じ力学方程式の両項に他ならないのである 。」(ルロワ=グーラン,op,cit,p.69)

ここでは身体と脳とがトランスダクティブに共進化していくものであると捉えられているが、そこでは手の解放という契機に重要な役割が与えられている。脳の発達はそこにおいてはあくまでも二次的なものであり、それは身体構造における手の解放にともなう可動性mobilit?の獲得にいわば先導されていく。そして、人間の出現にまでつながる可動性の獲得の冒険においてひとつの大きなメルクマールをなすのは、直立位の獲得である。このことによって手は移動手段であることから解放され、可動性の獲得は新しい次元に突入することになる。すなわち、道具を通しての可動性の獲得が可能となるのだ。

「手の解放の帰結としての人工補綴性とは自己の外に身を置くことであり、それは同時に自己の射程の外に身を置くことでもある。 」(“La technique et le temps 1”,p.156)

ここにおいて人工補綴による時間と空間の構成という新しい次元での可動性の獲得が可能となり、これ以降、可動性は後成系統発生の層において発展していくことになる。
 直立位の獲得は手の解放を意味すると同時に、後方頭蓋を力学的に解放することによって脳の発達の新しいステージの幕を開けた。むろん、ここにおいても脳の発達が可動性の獲得に導かれるという点は変わらないのだが、直立位の獲得の時点で体構造そのものの進化はほとんど止まっており、そこでは可動性は人工補綴を通して獲得されていく。ところで人工補綴を迂回することで獲得される可動性は、すでに反省的/再帰的なものである。

「燧石は最初の反省的記憶であり、最初の鏡である 。」(ibid,p.153)

人工補綴がもたらす可動性は、その「外」への迂回においてすでに反省的/反射的な可動性である。ただし、ここでは通常の鏡のイメージをひとまず捨て去る必要がある。というのも、燧石にまず関わるのは目ではなく手であるからだ。ジャン・ブランが述べるように、手が特権的な器官であるのはそれが触れると同時に触れられることが可能な唯一の器官である、ということにある 。手の解放が意味するのはこの触れるともに触れられるという二重の感覚の獲得であり、ここで鏡の比喩を用いて説明されている反省性/再帰性とは、他ならぬこの手において生じる反省性/再帰性のことである、ということを忘れてはならない。最初の鏡に出会うのは、目ではなく手であるのだ。そして燧石とは、手がそれを触れると同時にそれに触れられるものであるが、またそれはある一定の形をもつものとして手から離れて存続していくものでもある。それゆえ手が燧石からいったん離れたとしても、手は再びその同じ形に触れ、またその同じ形によって触れられることができる。
 人工補綴が可能となる以前、可動性はつねに身体と密着していた。しかし人工補綴はそこにある根源的な懸隔を生み出す。人工補綴は身体から離れて可動性の可能性を保持し、手がそのことを覚える。可動性とは「そこへと到達することができる」という了解の成立であるが、燧石においてその了解が外在化されることで、身体の《今ここ》を参照するその《できる》は、手が覚えている燧石がもたらす《できる》によって二重化されるのだ。了解とは反復可能であるはずのものの了解である。のちにこの問題に立ち戻ることになるが、了解Verstehenという言葉には《〜できる》という可能の意味が伴われており 、可能であることの本質は反復可能であることにある。このことから、記憶とは反復することのできるものであるから、了解とは記憶でもあるということが言える。そしてその記憶が、ここでは可動性の二重化を通して成立しているのであり、それはすでに反省的記憶である。手は、《いまここ》だけではなく《いまここ》にはない燧石の手触りをも覚えている。
 直立位の獲得以降の脳の発達は、この反省的/再帰的な可動性の獲得への迂回を通して展開される。

「人間化の、すなわち〔脳の〕皮質化の黎明においては、後成発生的なものを保存するという点で燧石が後成系統発生の乗り物となる。すなわち皮質化の過程は、それ自体がすでにひとつの反省であるこの保存の反省として生じていく 。」(ibid,p153)

人間の種別性は後成系統発生の層で反復される記憶へと迂回するという点にあるのだが、その迂回の最初の場面はそれ自体が反省的な記憶を形成する燧石への迂回の成立に見出されるのであり、それにともなって展開されていく皮質化という脳の発達は、その反省性をさらに反省していく二重の反省であるということになる。外在化という迂回を通して最も根源的な反省性を構成することが技術固有の次元の核心であるとすれば、その場面は二重の反省の手前での、燧石という「最初の反省的記憶」の成立に見出される。この「最初の反省的記憶」が成立することによって新たな進化のスイッチが入り、脳が新たな速度での発達を開始する。そしてまたその発達によって生み出された神経的記憶の能力の増大に結びつくことで、人工補綴もまた進化していく。
 ただし注意しなければならないのは、ここで「最初の反省的記憶」と呼ばれているものを実体化してしまわないことである。ルロワ=グーランは道具を「人類の体と脳の文字通りの分泌物」 と呼んでいる。実際には道具という痕跡を迂回することによって成立する新たな反復のプログラムが出現したというのが正確なところであり、あの神話的な「燧石」はあくまでも痕跡というステータスで理解されなくてはならない。そして重要であるのは、その最初の痕跡があくまでも手によってつかまれ形づくられる文字通りの物として生み出されたことである。ここに、技術固有の次元がなによりもまず物質的な外在化であるということの先史学的な理由がある。脳の発達には手の発達が先行するのであり、言語は脳の発達に結びついているのであるから 、それは先頭を切って物質へと介入する手に対してはつねに遅ればせに発達していくことになる。スティグレールが記憶技術に対する技術システムの原理的な先行性を主張するのもそのことに平行する。
 そのもっとも根源的な次元においては技術とは物質への外在化を通して生み出される反省性である、という主張は、技術と言語とが人間の同じ属性の表現であるという主張と矛盾するものではないし、さらには技術的外在化の可能性はつねにすでに言語の可能性であるという主張とも矛盾しない。技術と言語はどちらも「外」への迂回という本質的な飛躍にもとづいている。しかしその一方で技術固有の次元=技術システムの次元と言語の次元=記憶技術の次元とでは、いわば痕跡の次数がちがっている。記憶技術が生み出す痕跡の可能性は技術システムによって生み出される痕跡可能性の出現によってはじめて可能となる。スティグレールは人間とその「外」との関係を《誰》と《何》との関係として捉えつつ次のように述べている。

「言語は《何》の極めて特異な一ケースであり、その行為遂行的な動態性は《何》の行為遂行性全般のひとつの特異化である。言語を《何》の特異な一ケースであると述べることは、確かにスキャンダラスに思われる。なぜならば、言語は単なる反映ではなく、構成的な媒介であるからだ。しかしながら構成的な媒介であるということは、《何》全般に関してもまさしく真実であるのである。《自己の?外での?存在》の脱自?時間的構造として、言語はすでに《誰》と《何》のカップリングに属しているのであるが、《すでに?そこに》への、それゆえ将来への到達としてのあらゆる時間性を構成するのは、あれこれの言語上の特殊化の手前において、そのもっとも深い水準において《何》そのものなのである 。」(“La technique et le temps 2”,p.202)

技術システムにおいて生み出される反復のプラグラムと記憶技術において生み出される反復のプログラムは、深く浸透しあいながらも権利上はあくまでも区別されるべき二つの別のプログラムである。たとえば燧石という痕跡を生み出しているのは技術システムのプログラムであり、記憶技術のプログラムはいまだ介入していない。レンガを積み重ねて作られた壁や手でこね上げられる陶器などを生み出しているのも、さしあたりは技術システムのプログラムであると言えるだろう 。他方で、たとえば文字は記憶技術のプログラムによって生み出されているものだが、しかしながら文字はつねにそれが登録される支持体を必要とするのであるから、文字が現実に実現するためには同時に技術システムのプログラムも働いていなくてはならない。『メノン』に出てくる奴隷のように砂の上に線を引くのだとしても、やはりそこでも物質への外在化という契機が入り込んでいるのであり、それに真っすぐな線を引くという身ぶりそのものが、つねにすでに人工補綴を通しての「矯正手術orthop?dique」を受けているのだ 。記憶技術のプログラムはあくまでも技術システムのプログラムに同伴されなければならないのだが、しかしながらその同伴が確立されているという条件においては、記憶技術のプログラムは独自に反復の回路を形成していく。たとえば書物に書かれている言葉は、紙という痕跡を生産する技術システムにおけるプログラムへの根源的な依拠を完全に忘却しながら、それまでに蓄積されてきた言葉の記憶に接続し、そして新たな言葉の接続を待期する。それらの言葉の接続を支える技術システムのプログラムが問題なく機能しているかぎりは、記憶技術は技術システムのことを忘却していることができる。逆に言えばそれが機能不全に陥ったときには、記憶技術のプログラムもまた支障をきたし、そこでの反復は滞ることになる。このように技術システムと記憶技術とは階層関係をなしており、この問題には繰り返し立ち戻っていくことになるが、ここではさしあたり、技術と言語の関係もまた、対立や規定関係とは別の仕方でプログラムのそれぞれの編成という観点から捉え直すことができる、ということを確認するに留めておく。
 ところで、プログラムという言葉には非決定性の余地を残すことなくあらかじめその後の軌道のすべてを決定してしまう、というようなニュアンスがしばしば含まれる。そのような見方に反対してスティグレールは次のように述べる。

「プログラムはプログラム化可能なものしか生みだしえない、あるいはありそうもないことを生みだしえない、そう考えるように義務づけるものなど何もない 。」(ibid,p.214)

そもそも遺伝子のプログラムは、その厳密なプログラム性のただなかに変異を通して非決定性を持ち込んでいた。その非決定性はあくまでもプログラムによってもたらされているものだが、かといってその非決定性の帰結、すなわちその非決定性を通してもたらされる差異の内実そのものはプログラムされていない。プログラムが決定しているのは差異が生み出されるにいたるまでの反復する手順であり、そういった手順なくしてはいかなる差異も生み出されえない。プログラムはその反復可能性を通して差異が生じるにあたっての可能性の地平を構成するのだ。その地平の外において差異が生じるということは不可能である。たとえば遺伝子のプログラムは新しい概念を生み出すことはできないし、文字の解釈のプログラムは新しい生命を生み出すことはできない。ハンマーをいくら振り回したところで新しい文学作品は永遠に到来しないのだ。いわゆる「機械」が象徴するようなさしあたっては差異を生み出さないプログラムというのは、プログラムの歴史のなかのきわめて特殊な事例でしかない 。

「求められているのはプログラムなしですますことではなく、プログラム的なものを??ありそうもない事柄improbablit?の要因として??別の仕方で構想することである 。」(ibid,p.194)

すなわち、差異を生み出す反復するプロセスとしてプログラムを捉えるのだ。しかしなぜ反復ではなくプログラムなのか。あるいは反復と区別してプログラムを持ち出す必要があるのか。差異は反復を通して生み出されると述べるだけではなぜ不十分であるのか。それはプログラムの概念が、反復とその支持体、すなわち痕跡との関係性をより明確にすることができるからである。
 反復は痕跡へと迂回することで反復され、その迂回を通して痕跡に新たな痕跡を上書きしていく。しかしながらその上書きの様態は一様ではない。ハンマーの特定の形態は特定の身ぶりに蓋然的に結びついていくのであるが、その同じ形態がまったく別の身ぶりと結びつくということも可能である。たとえばそれをアクロバティックに回転させてみて、その身ぶりを他の人に伝えることも可能である。その反復可能な身ぶりはハンマーの形態と結びついて作動するひとつのプログラムである。ここには一つのハンマーと結びつきうる二つのプログラムが見出されることになるのだが、ハンマーそのものは自身がどのプログラムと結びつくかを決定することはない。それが特定のプログラムと結びつく蓋然性がハンマーの形態において見出されるのだとしても、それは決して決定的なものとはならない。もしかしたら、なんらかの社会的条件によってハンマーはアクロバティックな使用のプログラムと優先的に結びつくことになるかもしれないし、その場合、ハンマーの形態そのものがアクロバットに適したものとして変化していくことになるだろう。また一つの痕跡はつねに複数のプログラムと結びつく可能性へと開かれているのだが、他方で一つのプログラムもまたつねに特定の痕跡にのみ結びついているわけではない。たとえばハンマーが必要な場面においてそれが見あたらないとき、別のものをハンマーの代わりに用いることも可能である。そのときハンマーという痕跡に結びついていたプログラムが別の痕跡と結びつく。それに掴むことのできる物がなにも見つからないとしても、たんにハンマーを振るという身ぶりだけを試すことも可能である。ハンマーという人工補綴は、腕そのものをいくらかはハンマー化するのだ。
 上に挙げられた例はあくまでも身ぶりの次元でのプログラムに関するものだが、そこに記憶技術の次元でのプログラムを介入させて考えることもできる。たとえば庭先からその使用方法がまったくわからない道具らしきものが出土したとする。いくら押したり振ったり回したりしてみても、それがもともとどのように使われていたのか、つまりそれがどのようなプログラムに服していたのかが皆目見当がつかない。しかしその後その庭から、その物体らしきものの使用方法を図解した紙が掘り出された場合には事態は一変する。そこにはその物体をどのように使用するべきであるのかというプログラムが記されているのだ。ここには、痕跡そのものの伝達とその痕跡のプログラムの伝達とは区別されなければならないということがはっきりと現われている。むろん、この例においてプログラムを伝達するものもまた紙という痕跡に書き込まれており、それを扱うプログラムもまた存在していなければならない。その紙を犬が掘り出したとしたらプログラムは読みとられないし、またまったく事情を知らない別の誰かの場合もおそらくは同じ結果に至るだろう。とすればそのときその紙は痕跡ですらない。痕跡が痕跡であるのは、それがなんらかのプログラムと結びつくことによってのみである。
 またこの例においては、プログラムを図解している紙には言葉も書かれているかもしれない。その場合にはその言葉自体が痕跡となりそれを読みとるプログラムと結びつかなければならない。ただ、痕跡としての言葉が問題になると事情ははるかに複雑になる。というのも痕跡としての言葉を読みとることを可能とするプログラム自体が言葉を通して構成されるからである。そのことは辞書を開いてみるだけでわかるし、また単語レベルでなくても、たとえばある哲学書をどのように読めばいいのかを教えてくれる本もまた言葉で構成されている。となるとそこでは無限遡行が不可避になるように思われるが実際にはそうはならない。人間はつねにすでになんらかのプログラムのなかに巻き込まれているのであり、これが人間の事実性の意味するところである。それがいかなるプログラムと結びつくのかが完全に不明な痕跡というものに出会うことは不可能で、痕跡はつねにすでに読みとられている。痕跡があるプログラムの痕跡として見出されるのは事後的にでしかない。使用方法が完全に不明な物体に出会うことができるのは、たとえばその物体がすでに考古学なりなんなりのプラグラムと結びついているからだ。痕跡が痕跡として見出されるときには、その痕跡はすでに新たなプログラムによって書き換えられつつある。
 痕跡はつねにプログラムの痕跡であるが、このことは、たんに個々の痕跡においてのみならず、ある痕跡の集合をマクロな次元で捉える場合にも同様に当てはまる。たとえばある時代に生産された言葉の総体を大きな痕跡であると捉えるならば、そこに痕跡として残されているそれぞれの言葉を、他の言葉ではなくまさにその言葉この言葉を残すにいたったプログラムが存在していなくてはならない。さらにそれぞれの言葉は必ずなんらかの石や紙という支持体を必要とするのであるから、そこでは技術システムの次元におけるプログラムも考慮しなければならない。時代を超えて存続していくことができるのは、たんに発話されただけではなく、石なり木なり紙なりといった物に刻み込まれるにいたった言葉のみであり、その言葉はありとあらゆるプログラムが交差するなかを生き延びてきたのだ。ここに考古学arch?ologieという言葉を再発見する可能性が見出される。ここでのアルケーアリストテレス的な意味でのそれであり、ある事物をまさにそのような物として生み出した動因として想定される起源としてのアルケーのことである。スティグレールは次のように述べている。

「もろもろの痕跡の中で、あるものは記憶の保存とはまったく別の目的において生産される。にもかかわらず、それらは自発的に記憶を伝達する。そしてだからこそ考古学はそれらを探すのである。それらはしばしばもっとも古い時代のエピソードの唯一の証人であるのだ 。」( Bernard Stiegler “La technique et le temps 3. Le temps de cinema?et la question du mal-?tre”, Galil?e,2001,p.199)

その痕跡が証言するのは、その痕跡をそのようなものとして形づくるに至った起源(アルケー)としてのプログラムの存在である。考古学とは、残された痕跡からその痕跡を生み出した当時のプログラムの体系を読み解いていくプログラムの解釈学なのである。
 ちなみに『存在と時間』におけるハイデガー存在論もまた現存在という特権的存在者を構成しているプログラムの解釈学であったと言えるが、そこでは本来的な時間性という地平における脱自的な実存というものが解答となるプログラムとして読み取られていた。しかしすでに見たように、その解釈学は読み取る対象としての痕跡をあくまでも物質の手前、技術の手前に見出した。そのことによってハイデガーは痕跡を生み出す外在化という根源的なプロセスを無視することになり、それにともない本来的実存というプログラムを技術的客体という痕跡へと迂回することのないプログラムとして措定するという過ちを犯すことになった。のちにはハイデガーは存在というプログラムを言葉という痕跡と結びつけて捉えるようになったが、そこにおいても痕跡のもっとも根源的な構成契機である物質への外在化は無視されており、最終的には存在のプログラムもまた痕跡への迂回なきプログラムへと還元されてしまっている。
 デリダは痕跡をグラムと呼び、あらゆる意味はグラムへの迂回を通して構成されるという観点から自身のグラマトロジー=グラムの学を開始した。デリダ自身は言語の次元における痕跡に焦点を当てるが、そこで提示された枠組みそのものは痕跡全般についても適応しうるものであり、スティグレールはまさにそのようにデリダのグラマトロジーを継承している。が、それと同時にスティグレールは痕跡の学のグラマトロジーにはプログラムの学としてのプログラマトロジーが伴わなければならないとする。そしてスティグレールプログラマトロジーはグラマトロジーを具体化するものであると述べる。

「このプログラマトロジーはグラマトロジーの実効性effectivit?であり、実効化したen effetグラマトロジーであり、代補の歴史としての??抹消としての、上書きしつつ抹消する書き込みとしての??差延の実現effectuationである 。」(“La technique et le temps 2”,p.115)

それぞれの痕跡はプログラムと結びつくことではじめて「実現」するのであり、それゆえ痕跡の学もまたプログラムの学と結びつくことではじめて「実現」することになる。《その痕跡はいかなるプログラムによって生み出されたのか?》。スティグレールは次のように述べている。

「プログラムの概念はあらゆる種類の活動へと拡大されなければならない。学校のプログラム、政治のプログラム、労働のプログラム、すなわち複雑きわまりない形態のもとでもろもろのリズム、もろもろの反復、もろもろの習慣を形式化するあらゆるものにプログラムの概念は適用されなければならないのである 。」(ibid,p.211)

 痕跡は必ずプログラムの痕跡であるが、特定の痕跡がつねに特定のプログラムとのみ結びついているわけではない。一つの痕跡が複数のプログラムと結びつくこともあるし、一つのプログラムが複数の痕跡と結びつくこともある。たんに反復と述べてしまうと、痕跡とプログラムとのこのような関係性はなかなか見えてこない。反復一般というものは存在せず、現実に見出されるのは特定のプログラムとしての反復のみである。そしてそのプログラムはつねに痕跡への迂回を通して反復されていく一方で、特定の痕跡にのみ固着しているわけではない。そもそもそのような固着を克服するからこそそれはプログラムであるのだ。