シリーズ第二回「右翼と左翼」


浅羽通明の『右翼と左翼』をちらっと立ち読みしました。
ということで、たまには真面目なことを考えてみるシリーズ第二回のお題は「右翼と左翼」です。
ちなみに第一回はこれ↓
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061019
歩き煙草を考える」

右翼と左翼という言葉はフランス革命時の国民議会における席の位置が由来、ということはよく知られています。一般的には右と左は保守と革新という風に見られますが、そもそも右も左も革命によって開かれた議会にいたわけですから、なんらかの形でどちらも革新です。要は、革新の速度の問題だということになります。速度の問題、ということは変わることと変わらないことの違いではなく、早く変わることとゆっくり変わることの違いだということです。

速度という補助線に加えて、表象という補助線も引いてみます。変化が求められるということが成立する場合には、そこにはすでに二つの表象の存在が前提とされます。現在の表象と未来の表象です。前者に不満があるから後者が求められる。ただし正確には、現在というものはある過去の連関のなかに成立しているわけですから、現在の表象は、その現在を作り上げている過去の表象でもあります。ということで過去=現在の表象と未来の表象と呼ぶことにします。アインシュタインが見出したように速度とは異なる速度の差異であり、この二つの表象の間でさまざまな速度がやりくりされうるわけです。

フランス革命の場合には過去=現在の表象は王政に象徴され、未来の表象は自由や平等に象徴されます。その二つの表象の間でどのように速度をやりくりするのか、という点で右と左がわかれます。右翼と左翼という言葉の元となった議会においては、「議会で決定された事項の王による拒否権を認めるか否か」と「貴族院庶民院の二院制にするか庶民院だけの一院制にするか」という議題が採決されました。どちらの議題も、前者が王政、後者が自由や平等という表象と結びつきます。

この二つの表象の関係は「すでに」存在しているものと、「いまだ」存在していないものとの関係です。実際には「過去」に見出される伝統というのは往々にしてなんらかの形で虚構であるわけですが、いずれにせよそこに「すでに」という時制が関わるという点では変わりありません。また虚構という点で言えば、「いまだ」の時制で見出されるものはまさしく虚構でしかありえません。しかしそれは一種の「テコ」として機能する虚構であり、フランス革命は当時はまったく存在していなかった「自由」と「平等」という虚構を目指すことによって、何らかの形でそれを実現していったわけです。現在を物語的に意味づける過去の虚構と、来たるべきものを物語的に意味づける未来の虚構とが存在しているわけです。その二つの虚構的表象のあいだでの速度のやり取りにおいて、右と左がわかれていく。

むろん、その虚構的表象の内容自体は対して重要ではありません。重要なのはその二つの表象に伴う二つの時制です。「すでに」実現しているものへの態度と、「いまだ」実現していないものへの態度という対比だけを取り出す必要があります。ここにおいて、時制という観点からとらえられた二つの表象と、その両者の間での速度の差異、という発想が見出されます。

ただし現代の状況を理解するためには、ここにさらに経済というファクターを考慮する必要があります。政治だけでなく、経済もまた社会の変化を導いていくエージェントとなります。経済こそが社会を決定する、なんてことをいったマルクなんとかというひともいました。いずれにせよ、経済的次元を無視した政治など存在しえません。それゆえ政治の次元での速度の決定が実効性をもつには、経済が導く変化の速度を政治的決定に何らかの形で寄り沿わせる必要があります。

社会主義的な計画経済とまでは行かなくても、たとえば所得倍増計画とかいうのがあったように、政治的表象のなかにはつねに経済も入りこみます。その時代の日本の場合には、まず国家という過去=現在の表象が信頼されつつ、そのうえで経済成長という未来の虚構との間で一定の速度というものが信頼されていたのだと思います。そのスキームのなかにさまざまな偏りがあるにせよ右の姿勢があったとすれば、社会主義なり共産主義なりという「いまだ」ないものの表象の方に向かって速度を上げようとする姿勢が左であるということになるでしょう。

しかし現代という時代の特徴のひとつは、経済の速度が政治の速度からは大きくかけ離れているという点にあると思います。たとえば高度成長の時代には、経済成長という未来と国家という過去=現在とは共存していましたが、現在では外資がどうとかマネーゲームがどうとかいわれるように、経済的速度が国家という過去=現在の表象とはっきりと相克し始めているように思います。

国家という過去=現在という表象が動揺しているのだとすれば、未来の表象へと速度を上げたい左翼からすればそれは喜ぶべき事態であるかのように思えます。敵の敵は味方ということです。しかし実際にはそうではない。というのも経済の速度は、そもそも政治の速度とは異なる原理で動いているからです。ここでは過去=現在の表象と未来の表象との差異として速度が生まれる以前に、政治の速度と経済の速度とかまずは対立してしまうのです。

近年のヨーロッパでは、経済至上主義の拒否という点で右と左が一致する、という例がしばしば現われ、そういったことなどから左右の対立が曖昧になってきた、ということが言われたりします。しかしこのことは、右翼と左翼というのが基本的には政治的な二つの表象の間で速度をやりくりするのに対し、経済がそういったやりくりの構図そのものの外部でべつの速度を組織している、という点を理解すればなにも複雑な事態ではありません。たとえば大学のなかでいろんな対立があったとしても、大学そのものをなくそうという動きに対してはみんな一致して反対するわけです。

まあ実際にはそんなに単純ではなく、新保守主義みたいに経済的速度そのものに政治的表象を与える人たちもいるわけですが、基本的には、二つの表象の間の速度としての政治的対立と、それとは別の速度を有する経済の次元、というくらいの道具立てをもっていれば、右と左の関係に関する大まかな見取り図が得られるのではないか、と思っています。

以上、シリーズ第二回でした。
要望があったり気が向いたりしたまたやるかもしれません。


追記:
稲葉振一郎氏が左右に加えてマクロ経済のことも考えなければならないと指摘していました。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061203
経済学のことはよくわかりませんが、大枠では経済独自の速度の次元を考慮に入れるということなのでしょうか?
ちがうか?