資本主義と肛門について

[考察][個人的経験]「資本主義と肛門について」

以前、ある知人たちが作ったフリーペーパーで「下流生活マニュアル」という特集が組まれたおり、そのテーマでなにか書いてくれと頼まれて書いたものを、なんとなくアップします。

タイトルは「資本主義と肛門について」とかいうものだった気がします。

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「資本主義と肛門について」

 青少年のユートピア志向のハートをキャンと突き刺すようなキュートな書物を読んだというわけではない。わけもなくしわがれた顔のわけ知り風情のおっさんにまんまとたぶらかされたというわけでもない。ましてや空からドドメ色の天使が降りてきて深遠な真理をそっと耳元で囁いた気がした、というわけではさらさらない。むしろおそらくは若輩者のパチンコ玉的な無軌道でもってあっちこっちとぶつかっているうちに、うっかりとどこかのポケットに飛び込んだ。すると景品口からおもちゃの兵隊たちが飛び出してきて、敢然と行進しながら「資本主義に気をつけろっ!!資本主義に気をつけろっ!!」とシュプレヒコールを繰り返しそのまま交叉点を曲がっていった、といったところが正確なところだろう。とにもかくにも高校生の僕にとって、気付くと資本主義は外国人窃盗団なんかよりも遥かに警戒すべき対象となっていた。
 しかし僕の家は貧乏ではあったけれど、資本家が毎週末にやってきてはテレビだのタンスだのを持っていってしまうというようなわかりやすい搾取をされていたわけではなかった。そこで僕は考えた。「搾取されているのは僕の欲望なのだっ!!」。たとえば僕はあのCDが欲しい。しかしそれは商品であり値段がついている。そこで僕は疑った。もしかすると僕が欲しいあのCDがたまたま商品なのではなく、あのCDが商品だから僕はそれが欲しいのではないか。とすれば僕の欲望自体が、気付かぬうちに商品に適合するように資本主義的整形外科手術を施されてしまっているのではないか。そして童貞特有の短絡的発想を見事に発揮して、僕は次のように決心したのだった。「商品を欲しがることそのものを止めてしまおう」。そうして僕は、以前から何かを買ったりすることは少なかったのだが、さらにいっそう決然として物を買うということを止めたのだった。
 どうやら物を欲しがるという行為は、一回限りのものであるというよりはひとつの際限のない循環運動のようなものであるようで、それなりにご褒美を与えてやれば絶えず自己を拡大再生産しつづけていく一方で、その循環運動を止めてしまうと、欲望そのものが次第にそして着実に縮小していくものであるようだった。僕はCDを欲しがらなくなり、映画を観たいとも思わなくなり、せいぜい図書館でただで読める本に手を伸ばすくらいという、森鴎外が『舞姫』で書いていたあの「ニル・アドミラリイ」という状態に近くなっていった。ある行為にお金がかかるというただそのことだけでその行為にはまったく興味がなくなる、という境地に達しつつあったのだ。それはある意味では軽やかなものではあったが、しかし同時になんだか自分の存在が希薄になっていくような感触もあった。
 たとえば世界が一つの複雑かつ壮大なショーウィンドウであるとしよう。それはもうつるつるとしたウィンドウで、どんなに巧みなロッククライマーもなにひとつ手掛かりを見つけられないほどののっぺり模様。しかしお金があれば。そう、お金があれば店員さんがウィンドウの向こう側へと迎え入れてくれ、商品の購入によっていわば自分の存在の足跡をそこに残していける。その世界では人々は、そうした足跡をさまざまに編み上げることで自分独自の存在を世界に刻み込み、そこに個性というなんとなくしっかりしたものを作り上げる。しかし僕は商品を欲しがることをきっぱりと止めてしまっていたので、ウィンドウの向こう側に見出されるはずの足跡帳は存在しないも同じであり、ウィンドウはただただ自分の顔を映し出すはっきりとしない鏡以外のなにものでもない。そして僕はその鏡だけを延々と見つめながら世界をさまよう。なに一つ差異はない。自分の目の前に、そこに身を投げ出しなんやかやと自分の痕跡を残していくべき世界というものが存在するのかどうかということ自体がなにやら怪しくなってくる。とするともはや万華鏡のなかで迷子になったようなもので、キラキラと鮮やかなものどもにクラクラとしながらも、ときおりわざとよろめいてみては自分の身体のリアリティーを辛うじて確かめてみる、ということくらいが関の山である。いやはや。
 しかし世界は幸いにも、完全無欠なショーウィンドウほどにはのっぺりしていない。僕はよく新宿に出向いた。学校から近かった、という以外の理由はない。しかしそれだけの理由があれば十分である。僕はよく新宿をフラフラした。それは物を買わない僕にとってはまさしく万華鏡のなかで迷子になるようなものであったが、ただしあのショーウィンドウの世界とは異なり、そこにはある明白な窪みが、お金がなくてもそこに自分を投げ込むことのできるまだ乾いていないコンクリートのような場所があった。それはトイレである。僕はいつも新宿にいくと、デパートのトイレにしばらく篭城することを常としていた。篭城。それは当時の僕にとっては紛れもなく篭城であった。公園にあるトイレではダメなのだ。あのショーウィンドウ的世界が展開されているデパートのなかの、きっちりと掃除の行き届いているトイレ、そこにこそ僕は篭城しなければならなかった。敵は誰か。敵は、それにしても、いったい誰であったのだろうか。
 すくなくとも間違いのないことは、デパートのトイレは僕にとっては、ショーウィンドウ的世界における小さな亀裂なようなものであったということだ。無理矢理にロマンチックなイメージを捏造してみるならば、アスファルトの割れ目から顔をのぞかせる野草や、近代的なビルの一角にこっそりと設営された鳥の巣のような。しかしそんな安っぽい比喩はさておきなによりも重要であるのは、そのわずかな亀裂というものが、人間における排泄という行為によって生み出されている、ということだった。それはずばり、ショーウィンドウの肛門であるのだ。人間にはいくつも穴が空いている。だとすれば同じくショーウィンドウにも穴が空いているのだ。むろん、当時の僕はそんなことを考えていたわけではなかったが、それでもその重要性に無意識のうちに気付いていたということは確信している。
 さて、僕はトイレで何をしていたのか。当たり前だ、大便である。ただし、きわめて悠長に。というのも当時の僕にとって新宿でする価値のある唯一のことが大便であり、それをそそくさと済ませてしまうなどとことはまったく考えられない暴挙であったからだ。その排便の時間だけに、ショーウィンドウ的世界はわずかにその身を開いて、うちに隠しもっていたその柔らかい肉を垣間見せる。そこに見出されるのはまさしく肛門的な親密さであり、ただその一点にすがることによって、僕は辛うじてショーウィンドウ的世界とつながっていることができた。ともすると僕はショーウィンドウ的世界とは、誰にも知られていない秘密の共犯関係にあるとでも錯覚していたかもしれなかった。
 それにしても今から見れば、当時の僕が求めていたあのショーウィンドウ的世界との肛門的親密さというのはなんとも奇妙なものではある。というのも、僕は物を買うことを止め、そうして商品に接続した欲望そのものの息の根を止めてしまおうとしていたのだから、そもそも新宿などというケバケバした都市などにおもむかず、地元の裏山の秘密基地にエロ本でも隠していれば良かったのだ。そこには当然ながら、やはりなんらかの親密さは生まれたであろう。しかし僕はなぜだか新宿におもむき、地元の裏山には見向きもしなかった。それはなぜなのか。
 それはやはり、僕が生まれ落とされた場所というのがはじめから結局のところショーウィンドウ的世界であった、ということなのだろう。だから半ば帰巣本能を発揮するようにして、僕は気付くとショーウィンドウという鏡ばりの子宮へと這い寄ってしまう。そしてあえてエディプス的な物語を引き合いに出すとすれば、僕はあるときその鏡ばりの子宮には、値札という父による禁止を発見したのだと言えるかもしれない。ただしそこに見出された禁止は、あのエディプスの物語を大きくはみ出している。「母と交わるなかれ、お金を払わないのならば!!」この奇妙な禁止に錯乱した僕は、おそらくその乏しい語彙帳のなかから「資本主義」という言葉を選び出し、物を欲しがることを止めることで、父だけでなく母をも、しかし殺害するというのではなくむしろ初めから存在しなかったことにしようとしたのだろう。何ひとつ欲しがらないこと、それは孤児になることである。僕は「資本主義」の世界での孤児になろうとしたのかもしれない。
 なるほど新宿は、孤児にはまさしくふさわしい都市のように思える。当時、僕はまだジャン・ジュネという名前を聞いたことはなく、その孤児の泥棒作家が「自分の母親が汚らしい淫売であったならどれほど素晴らしいだろう!」と夢想していたことも当然知らなかった。だからデパートのトイレのなかでジュネの放浪の旅について思いを馳せたことなど一度もなかったのだが、しかしもし僕が自分の回想をきれいさっぱり捏造するのだとしたら、洋式トイレに座り込む当時の僕には間違いなく『泥棒日記』を持たせたことだろう。
ジュネは、孤児として自身がさまよった世界に、その華麗な言葉でもって王冠を授けていった。『泥棒日記』では、たとえば次のように述べられている。

わたしはこの時期について感動をもって語り、そしてそれを壮麗化するのだが、しかし、眩惑的な辞句――わたしの言う意味は、わたしの精神にとってその意味自体よりも眩惑力をより多くもった辞句――がわたしの脳裡に浮かぶという事実は、そうした辞句が表現している、そしてかつてわたしのものであったところの、貧窮もまた驚異の源泉であるということを意味するのかもしれない。わたしはもっとも高貴なものの名称でそれを叙述することによって、この時期の名誉回復をしてやりたいのだ。わたしの勝利は言辞によるものであり、わたしはこの勝利を、使用する辞句の豪奢さに負うているのだが、しかし、わたしにそのような辞句をすすめるこの貧窮よ祝福されてあれ、と言いたい。

当たり前だが僕はジュネのように苛烈ではなく、また華麗な言葉も持ち合わせていない。刑務所に放り込まれることもなく、たんにデパートのトイレに篭城するだけであり、つまるところ、そこで大便をするだけである。そしてそもそも当時の自分の名誉回復を図るなどというつもりもなく、むしろ僕はその当時からはほとんど恢復しつつある、と述べるだろう。恢復しつつある、ということはつまり物を買うようになったということだ。もはやほとんど疚しさを覚えることもなく、現在の僕はショーウィンドウの向こう側へと足を踏み入れる。
 結局のところ僕は何が言いたかったのか。いったいなんのために、新宿をさまよってはトイレに篭っていたというそのそれほど華々しくはない行状をわざわざ報告するのか。それほどはっきりしたことはいえないが、それでも、当時の僕は自分なりの感覚に基づいて「サバイバル」を試みていたように思う。それがどういった「サバイバル」なのかはよくわからないが、しかしそれはこの現在でも、というよりもむしろこの現在の方がずっと、なんらかの意味をもつ「サバイバル」であったのではないか、と僕はなんとなく考えている節がある。そう考えているのだが、しかしそれではその「意味」とはいったい何なのだと問われるとそれは困ってしまう。端的に、「わからない」としか答えられない。自分自身でもわからないのだから他の人はなおさらわけがわからないと考えるのが妥当だろうが、しかし世の中どんなボタンの掛け違いが起こるのか分からない。だから書いてみた、ただそれだけである。