不思議の国の柔らかい機械

[文学・映画][考察][思想]不思議の国の柔らかい機械

すこし前のことですが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読んだことがなかったということに思い至って、渋谷のブックファーストに立ち寄りました。文庫の一番安いやつを買おうと思って検索をしているうちに、ふと気が変わって英語で読むことにしました。それで検索にヒットした原書を探したのですがどこにおいてあるのかよくわからず、代わりに原文の上のところどころにルビが振ってある親切なやつを見つけたのでそれを買って読み始めたのでした。

この物語はどうも僕の性にあっているらしくてとても面白かったのですが、読みながら僕は、この本にもし根本思想というものがあるのだとすれば、それは「ヴィトゲンシュタインヴィトゲンシュタインを足して割ったような感じだな」と思ったのでした。

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まともに読んだことがないながらも、『論理哲学論考』に代表されるいわゆる前期のヴィトゲンシュタインの思想を僕なりに要約すると、そこで論じられていることはつまるところ「言語とは命題機械である」という主張であるのだと思います。言語というのは最終的には「AはBである」という命題に至りつく厳密な機械であり、人間と言語との関係はといえば、その機械を正しく使うか使えないかのどちらかでしかない、というのがその主張です。

だから人間が、「言葉にはできないような」倫理や情緒を言語に流し込もうとしてもはじめから詮ないことであるわけです。車工場のベルトコンベアーにヤンキーを乗せてもヤンキー先生になって出てくることはなく、そのベルトコンベアーは「車」という出口に向けて正しく活用されることしか許さないのと同じように、言語もまた「命題的主張」というあらかじめ決められた出口に向けて鈍重に作動するベルトコンベアーであるからには、それを正しく活用する努力をしなければならないというわけです。

イメージとしては、人間たちの間に透明な言語機械が厳然と浮かんでいて、そこに材料をいれるとカタンカタンと音がして「AはBである」というお互いに共有可能な意味の製品が転がり落ちてくる、という感じです。言語というものがそもそもそのようなものであるのだから、必然的に「語りえぬものについては沈黙せねばならない」ということになります。

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対して『哲学探究』に代表されるいわゆる後期のヴィトゲンシュタインは、前期におけるそれとは対照的な主張をしているように思えます。前期の言語観があらかじめその機能が厳密に確定された機械として理解されていたのに対し、後期においては言語はそれが実際に使われるその場に全面的に従属するものとして理解されています。その発想は、「意味とは使用である」という主張に余すところなく表現されているといえるでしょう。言語はあらかじめその機能の通路を確定されているわけではなく、実際に使われた場においてそれが果たした意味こそが、言語のもつ現実の意味であるとされるのです。この発想が、いわゆるプラグマティズムに大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

僕はこの後期ヴィトゲンシュタインの言語観を、綱引きのイメージで理解しています。それも、運動会などであるような大綱引きではなく、一人一人の人が数え切れない綱をもって、そのそれぞれの綱のもう一方の側をもっている数え切れぬ人たちと、それこそバトルロワイヤル方式で同時かつ平行して引っ張り合っている綱引きです。このとき、その綱引きにおいて一見すると静止していながらも、実際には両端から引っ張り合っているその力の均衡の結果でしかないそれぞれの綱が言葉である、と考えられます。

「意味とは使用である」ということが言われるとき、そこでの使用というのは、綱=言葉を引っ張ったり緩めたりすることでだれかに働きかけることであり、その力のやり取りの関係から離れてはそもそも言葉に意味などないわけです。

このように僕は、前期と後期のヴィトゲンシュタインの言語観をそれぞれ、「命題機械」と「バトルロワイヤル綱引き」と呼んでいます。

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ところで、一見すると正反対のものであるように思えるこの「命題機械」と「バトルロワイヤル綱引き」のイメージは、実はある一点において共通しています。それは、言語がある外界の対象を透明に映し出す媒体である、という言語観(これは「透明言語」と呼ぶことにします)に対立している、という点においてです。

「命題機械」の方は、一見すると外界を正確に指し示しているかのように見えるかもしれません。しかし実際にはこれはあくまでも言語の内部で命題を生成する機械であり、そこで製作された命題が現実に外界と対応しているかどうかなどということにはまったく関心がありません。その辺が、ヴィトゲンシュタインがいわゆるウィーン学派の開祖であるカルナップ、シュリック、オイラートといった人たちと決定的に異なっている部分であるわけです(少なくとも僕はドミニク・ルクールの『ヴィトゲンシュタインポパー』とともにそう解釈しています)。

言語を通して外界に正確に到達しうるという「透明言語」の言語観からすると、「命題機会」も「バトルロワイヤル」綱引き」も、一種の疎外という形態をとります。前者では機械の自動性に、後者では発話の場での力のやりとりに、それぞれ言語の透明性が疎外されるわけです。ここに、両者の共通点を見て取ることも可能であると、ひいてはヴィトゲンシュタインの前期と後期との、一見すると断絶したその変遷に通底するなにかを見出すことができるのではないかと考えています。

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さて、『不思議の国のアリス』が「ヴィトゲンシュタインとヴィトゲンシュタイを足して割ったような感じ」というのはつまり、それを貫いている言語観というのが、「命題機械」と「バトルロワイヤル綱引き」を足して割ったようなものであるように思われる、ということです。その言語観を僕は仮に「柔らかい機械」と呼ぶことにします。

詳細な分析をする余裕も能力もありませんから、ある一節だけを引いてこの「柔らかい機械」言語観について説明してみたいと思います。その一節というのは、この古典中の古典である作品のなかでも間違いなくもっとも有名な一説の一つである、笑いだけを残して消え去るチェシャ猫に関する一節です。原文は次のようになっています。

"Well! I've often seen a cat without a grin," thought Alice; "but a grin without a cat! It's the most curious thing I never saw in all my life!"

既存の翻訳でどうなっているのか知らないのですが、あえて直訳気味に訳してみます。

まあ、にやにや笑いなしの猫ならなんども見たことあるけど―アリスは思った―でも猫なしのにやにや笑いだなんて!こんなおかしなもの、これまで見たことないわ!

不思議の国のアリス』を読んだことのない僕でも、このチェシャ猫のことは、いろんなところで引き合いに出されるので知っています。そして僕はこの場面について、木の枝の上で笑いだけが残っているというその「イメージ」だけを持って、それを「ナンセンスなイメージ」の古典的な一例として記憶していたのでした。しかし実際に上の箇所を読んで、僕はそれがたんに「イメージ」の問題ではないのだと気づきました。それはなによりも、言語的な転倒に関する箇所であるのです。

a cat without a grinとa grin without a catは、同一の表現の型、a A without aBの、AとBを入れ替えただけのものです。この表現の型をより正確に述べれば、不定冠詞+名詞+前置詞+不定冠詞+名詞というものですが、統語論的には名詞の箇所にはどんな名詞でも入ることができます。しかし実際の意味の次元を考えた場合、Aにcatを入れBにgrinを入れることは自然ですが、その逆は不自然であり、それゆえこの後者のパターンの可能性は現実の言葉の運用においてははじめから存在しないものとして扱われます。というのも人間はつねに意味から出発するからです。

このことを(articulation)の比喩を用いて言い直すと、言語それ自体の関節ということを考えてみるとすれば、それはa cat without a grinもa grin without a catも、いわば左右の腕の関節の可動領域が全く変わらないのと同じように分け隔てなく可能であるのに対して、人間の意味の地平の関節にあってはそうではない、ということです。

このようにお互いに異なる関節組織を有している言語と人間であるのですが、いうまでもなくこの両者はおたがいなくしてはそもそも存在することはできません。つまりこの両者ははじめから言語=人間というカップリングとなった複合機械であるわけです。アンドレ・マルティネという言語学者は言語の意味素と音素を区別してそれを言語の二重分節(double articulation)と呼びましたが、ここでは言語の関節可動領域と人間の意味の関節可動領域との二重関節(double articulation)というものを考えることができると思います。

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不思議の国のアリス』を貫いている一つの原理は、言語の関節がしばしば人間の意味の関節に拘束されることなく自由に振舞って、その動きにあとから人間の意味の関節が追いついていくという点にあるのではないか、というのが僕の仮説です。あの「にやにや笑いなしの猫」というイメージを生み出したのは、まずは言語の関節におけるcatとgrinの転倒であり、それに追いつくためにこのイメージが生み出された、という順序を僕は想定するわけです。

通常においては、言語の関節はほぼ全面的に言語の関節に従属しています。そのヒエラルキーを転倒させる装置が、アリスという子供の存在と、そして不思議の国の物語がそこにおいて展開される夢という場です。

まだ幼い子供であるアリスは、与えられたおもちゃをいじくり回すようにして言語と接します。たとえば物語のほんの序盤、穴の中を際限なく落下し続けながらアリスは「私がいる緯度と経度はどのあたりだろう?」と呟くのですが、しかしアリスは緯度と経度というものがなにを意味するのかを知らず、ただたんに、それらがなんとなく立派な言葉であるように思えたからためしに呟いてみただけであったりします。アリスにとっては言語はいまだ意味を映し出す透明な媒体ではなく、それ独自の関節をもった複雑なおもちゃにいくらか近いのです。

また、フロイト、というよりはむしろラカンが指摘していたように、夢の中では言葉(正確にはシニフィアン)は特定の意味に付着することをやめ、言葉に言葉が連鎖していくという回路をたどっていきます。いってみれば意味の関節が宙吊りにされた状態で、言葉の関節が勝手に動き回るわけです。

アリスは「不思議の国」という夢の論理が横行する世界において、言葉の関節を自由に動かしながら、その動きに寄り添って奇妙な意味=無意味のイメージを展開していきます。むろん、言語の関節にこのように寄り添っていけるというのは、アリスが子供独特の「柔らかな関節」を持っているからです。

ここには、ヴィトゲンシュタインの「命題機械」とも「バトルロワイヤル綱引き」とも異なる言語のあり方、およびそのような言語と人間との関係というものが見出されるように思います。まずここでの言語は明確に関節機構をそなえているという点において「バトルロワイヤル綱引き」とは異なっています。「バトルロワイヤル綱引き」においては言語は完全に軟体化して関節を失い、またそれゆえに無意味=ナンセンスというものも不可能になって、たんに有効か無効かという基準だけが残ります。また、「命題機械」とも異なって、それは無意味=ナンセンスを生み出すような関節可動領域をもっています。それはいってみれば間違いを起こす余地にあふれた関節機構であるわけです。

このような、いくらでも間違い(ただしそれは人間の意味の見地からみてのことでしかありませんが)を生み出すことができ、それゆえアリス=ルイス・キャロルのような「柔らかい関節」の持ち主と出会えば『不思議の国のアリス』を生み出すことができるような言語のあり方を、僕は「柔らかな機械」と呼びたいと思うのです。

そして言語のあり方に関するこの仮説の強みというのは、いうまでもなく、『不思議の国のアリス』をその論拠として引き合いに出すことができる点にあります。