憲法改正と政治的リアリズム

2007年5月20日放送 サンデープロジェクト 国民投票法案 枝野幸男 船田元 part1〜part3
http://www.youtube.com/watch?v=YU0fye0oPbU
http://www.youtube.com/watch?v=PJ5t-yk4MK4
http://www.youtube.com/watch?v=lTQv4zQNjQw

昨日、朝まで生TVで憲法改正論議を見たというのもあって、今日はyoutubeでそれに関連する動画を見ていたのですが、上にリンクを貼った、自民党の船田元氏と民主党枝野幸男氏とがサンデープロジェクトに出演しているものが、ほとんど感動的なまでにおもしろかったです。

この船田、枝野両氏は、衆院憲法調査特別委員の、自民、民主両党における代表者で、実質的にはそこでの議論を取り仕切っていた二人であるようなのですが、この二人は、いくらか風味は異なるとはいえ、とにかく徹底したリアリストであるという点では共通しており、ある種の政治家の鑑であると言えると思います。

日本の政治史のことはよく知りませんが、戦後、わずかな例外を除いてつねに自民党が与党でありつづけることができた理由というのは、徹底した政治的リアリストというのが自民党にしか存在しなかったという点に尽きるのではないかと思います。その状況が変わり始めたのはごく最近のことで、「政権交代」を具体的かつ現実的な目標として設定する民主党において初めて、すくなくともある一定数以上の政治的リアリストを擁する野党が出現したのだと思います。

上記の番組に出演している枝野氏の議論を見れば、そこには「政治的リアリスト」の範疇にはおさまらないある種の「激しさ」が垣間見えるにせよ、しかし彼がこれまでは絶対に自民党にしか存在しえなかった類いのリアリストであるということは疑いえないでしょう。むろん、ここでいう「リアリスト」というのはイデアルなもの、つまり理念に欠けた単なる政治屋であるということを意味するのではなく、プラグマティックな戦略が必要な場面においてはあくまでもリアリズムに徹するという一般原則を保持する人間のことです。

ただおもしろいことに、野党においてもリアリストが出現し始めたことと軌を一にするかのように、今度は自民党内部から、なにやら「リアル」から遊離したような動きが姿をあらわし始めているように見える、ということです。小泉前首相がなによりそうですし、そして安倍現首相もまたそうである、という風に僕には見えます。

船田氏と枝野氏は、憲法改正を見据えたその議論において徹底したリアリズムという観点から、「憲法論議」を選挙の「争点」にはしない、という点では完全に一致しています。その態度の理論的裏付けについては枝野氏がこれ以上ないやり方で明晰に語っています。要約すれば、憲法というのはどの政党であれ関係なく時の政権=与党を拘束する国の基本方針であり、それゆえそのときどきの与野党の勝敗を決する選挙の論理とはあくまでも区別して議論していかなければならない、ということです。政権を獲得するには衆議院議員過半数を確保すればいいのに対し、憲法改正の場合には3分の2が必要となるというこの差異が意味しているのはつまりそのことなのだ、と枝野氏は述べます。つまり選挙の論理を越えた、与野党の対立とは別の次元で議論することを要求するのが「憲法論議」であるというわけです。

しかし安倍首相は「憲法改正」を今度の参議院選挙の争点にすると明言し、それを受けて民主党の小沢代表も自民党への対決姿勢を打ち出していきました。つまり、思惑はどうであるにせよ結果的には「憲法論議」を選挙の論理で扱っていく、という道筋に入っていったのです。船田氏と枝野氏は、そのことに対してかなり率直に苦言を呈しています。とくに船田氏は、参議院選挙を控えた現在という時点において、ほとんど直裁に自党の総裁を批判するきわめて評価すべき勇気を示しています。

自党の代表に向けられた船田氏の批判は、表面的には民主党を利する一種の利敵行為にも見られるかもしれませんが、しかし自民党の地位をこれまで築き上げてきたのがあの「リアリズム」であったのだとすれば、むしろ船田氏による批判こそが自民党を支えるものであるでしょう。

憲法改正という具体的な目標を達成するためには国会議員の3分の2の承認を得なければならず、そのためには選挙の論理ではなく、議論を通して与野党の合意にいたる必要がある。そして衆院憲法調査特別委員の議論では、船田氏と枝野氏は基本的には「包括的な合意」に達していた。憲法改正に向けての具体的な道のりがはっきりと見えていたのです。しかし安倍首相が憲法改正を選挙の「争点」として焦点化したことによってその合意は決裂することになりました。なにしろ選挙というのは与党と野党が対決する場ですから、中心的な「争点」をめぐっては「合意」をすることは不可能であるからです。ディベートと同じです。

枝野氏はこの安倍首相の振る舞いを評して「最強の護憲派」だと述べました。つまり、振る舞いとしては「憲法改正」を叫びながらも、それを選挙の「争点」にすることによって結果的には「憲法改正」の現実的な実現を困難に陥れているからです。ここに見られる安倍首相の態度は、自民党を貫いてきた虚を捨て実を取るというリアリズムの態度には明確に対立するものです。

ならばなぜ安倍首相はこういった「遂行矛盾的」な選択を行なったのでしょうか。田原総一郎がもっている答えは明確で、つまりは支持率の低下への対策として、小泉劇場に変わる安倍劇場を作り出すためにセンセーショナルな「憲法改正」を「争点」としてぶちあげたのだ、というものです。おそらくこの見方はある程度は正鵠を射ているのだと思いますし、そうだとすればその限りでは、安倍首相にある種のリアリズムを見出す、ということも不可能ではないかもしれません。マーケティング的政治のリアリズムということです。ただしこの類いのリアリズムは、自民党をこれまで(=小泉首相の出現以前)支えてきたリアリズムとは大きく乖離するものですが。

しかし僕としてはむしろ、安倍首相の選択は政治的マーケティング上の選択である以上に、「憲法改正」を正面から主張することで得られる一種の想像的享楽がより強力な動機となっているのではないか、と思われてなりません。想像的享楽、というのは言いかえれば、実より虚をとるということです。さらに言いかえれば、現実はどうなろうが自分は信念を貫くのだ、という態度です。現実の世界では目的は実現しないが、しかしそのことを否認し信念を貫くことで想像的な次元で一種の享楽が生じる、ということはしばしば起こります。

日本の政治の歴史を考えてみれば、この想像的享楽に固執してきたのはつねに野党でした。さまざまな「理念」をその現実性を無視して主張しつづけることによって実より虚をとり、そうやって想像的享楽を獲得しつづけていた野党を尻目に、想像的享楽が欲しいのならばいくらでもどうぞと虚を捨て実を取ってきたのが与党、自民党でした。それが自民党のリアリズムであったのですが、「憲法改正」をめぐる安倍首相の動きを見ると、そこでは自民党的なリアリズムというものが忘却され、それまでは野党の専売特許であった想像的享楽への固執が見受けられるように思えてなりません。

船田氏がそのような安倍首相に、政治的リアリズムという観点から明確な批判を向けていくというのは、自民党にもまだちゃんとリアリストがしっかりと存在していることをアピールするという点において、実は逆説的ですが最大の自民党の宣伝になると思います。田原総一郎が枝野氏に、「自民党には船田さんみたいな人はどのくらいいるの?」と尋ね、それに対して枝野氏は答えました。

「約二割です。そして安倍首相みたいな方が一割で、あとは憲法についてはそれほど深く考えていないんじゃないでしょうか」

この「二割」という数字をどう取るかは人それぞれかもしれませんが、僕個人の意見を言えば、船田氏のような見識を持った人間が本当に全体の二割もいるのであれば、自民党は充分信頼に足る政党であると言えると思います。しかしもし、選挙を前にして安倍首相を批判したという理由でこの船田氏が厳しい立場に追いやられるなどということがあるのだとすれば、自民党はかなりキビシいでしょう。

さて、枝野氏は「憲法改正」を絶対に必須のものだと考えているのですが、その根拠は明確です。現時点では「解釈改憲」というものが繰り返し行なわれてきており、結果として憲法の空洞化というものが進んでいる。このままでは憲法の拘束力そのものが意味をなさなくなってします。それゆえ憲法を改正し、憲法を空洞化させるような解釈改憲を行なわせる余地をなくすような憲法を作り上げるべきだ、というのが枝野氏の主張の大まかなところだと思います。そして僕自身、この議論には賛同します。

解釈改憲などというものがいくらでもまかり通ってしまうのならば、実際には憲法は拘束力を失い何だってできるようになってしまう。少なくとも理屈上はそうなります。そこで憲法にその本来の力能を取り戻させるためには「憲法改正」が必須になるわけです。

昨日の「朝まで生テレビ」の終了間際に、潮氏という方が教条的な護憲主義者に対して、「教条的な護憲主義者こそが最強の改憲論者だ」というような主旨のことを述べました。たとえば共産党のように「なにはともあれ断固護憲」という主張は、そのあまりもの非現実性ゆえにそれに違和感を覚える人たちを「憲法改正」へと傾かせる結果になります。昨日のテレビでは、共産党の仁比氏という方が、「たとえ外国の軍隊に攻め込まれたとしても交戦権を認めない」という主張をしていましたが、こんな主張は結果的にはまさに「最強の改憲論者」と呼ぶにふさわしいでしょう。むろん、そもそも共産党の基本的なエートスというのは実を捨て虚を取るという、想像的享楽への徹底した執着にあるので、今さらそれに対してどうこういう気もありませんが。そういえば昨日の「朝生」では社民党の辻本議員は比較的まともなことを言っていました。つまり、「実」にあくまでもこだわるという態度が示されていたのでした。

また現実の「憲法改正」にいたるその手前において、「断固たる護憲」はその非現実性から不可避的に「解釈改憲」を必要な状況を生み出し、結果として憲法の空洞化につながっていくという現実も忘れてはいけません。その現実を無視しての「断固たる護憲」は、これもまたあの想像的享楽の獲得を目的とした、一種の現実世界の放棄だということになると思います。

なんだか長くなってしまいましたが、とにかく船田氏と枝野氏とのリアリズムに徹した議論には深く感動を覚えたのでした。番組の最後では、この両氏が自民党民主党の党首になるまで待つしかない、というような言葉が出ていましたが、本当にそんな日が来たらいいなあと素直に思ったのでした。