大澤真幸 『電子メディア論』

電子メディアとは

ここで「電子メディア」と呼ばれるものがどのようなもとして捉えられているのか、という点ははっきりしているだろう。要は、暗黙のうちに処理されていた時間という要素を極大化させるもの。そこに、たとえばカントの超越論的統覚の話が持ち出される。まず知覚そのものというものが想定されるのだが、主体にとってはそれはけっして把握されえず、つねに悟性という先験的な枠組みを通してのみ知覚が与えられる。とすると主体においては知覚の中に時間的な懸隔というものは存在しない。与えられた材料から取捨選択をし解釈を施してなにかを受け取る、という能動的な作業がそこで行われるわけではなく、先験的な枠組みを通してはじめから媒介作業は完成しているのだ。しかしその一方で、知覚そのものと主体による知覚、つまり感性と悟性との区別は保持される。ということでそこに超越論的統覚というものが想定される。ここが悩ましいところで、大澤真幸曰く、ここには知覚だけが存在し同一性など存在しないというヒュームに対するアンチとしてのカントの立場からして不可避に要請されるある要素、つまりなんらかの統一化の作用というものを想定するためにこの統覚というものをカントは引き合いに出したらしいが、そのためには知覚与件そのものから距離を置く反省的主体というものを想定せざるを得ない。しかし主体は自身の知覚を枠づける先験的な枠組みに対し同時進行的に反省的になることはできないので、ここにジレンマが生まれる。それゆえ、悟性の非時間性と主体に必要な反省性とを調停するために、超越論的統覚というものが引っぱり出されてくる、ということなのだろう。
ここから、たとえばニーチェの自己とは複数の自己の調停の結果である、みたいなビジョンを媒介として、ここでの知覚の直接性と超越論的統覚というものに期待される反省性との関係を共同体さらには民主主義という次元へとつなげていく。そこで電子メディアが果たす役割というのは、その空間的時間的な短絡能力によって、感性と悟性との間に入り込まざるを得ない時間性というものを限りなく縮減するものとして想定される。

第一章 電話するボブの二つの信念

二つの思考実験を通して、メディア一般に潜んでいるパラドックスを顕在化するものとして電子メディアが捉えられる。そこで顕在化されるパラドックスとは、メディアに媒介される瞬間から、自己もまた自己にとっての他者であらざるを得ない、という点である。しかしここにはおそらく過度の単純化があって、自己や他者というものを考える場合には大文字の他者第三者の審級)というものを考慮しなければならないだろう。その点がどのように考えられていくのか、という点に注目。