● エドガール・モラン 『スター』
「しかし、青春が、他の年齢層と対峙し、自分の想像上の領域と文化的モデルとをはっきりさせて、特殊な年齢層として自らを意識するようになったのは最近のことである。」P171
・・・これは世代論の出現というものと平行的に捉えうる事態であるかもしれない。世代論が出現するためには、「最近の若いものは」といった単純な年代間の相違のみではなく、それぞれの世代の性格を形成する時代の空気というものがつねに変容し続けていなければならない。とすれば、若者というのは単に年代的な他者ではなく一種の文化的な他者であるということになる。
→ ● ストラウス 『鏡と仮面』 第四章 「指導すること」参照
・・・しかしながら、文化的他者性の内実というのは「青春」と言われるような年代において形作られるものであり、世代間の相違というものも、それぞれの『青春」の内実が地層のように重ねられていく、といったイメージで想像するのが適切なのかもしれない。「指導すること」に即して考えるならば、「青春」が終わり若者たちが社会に出ることになれば、そこにはまだなんらかの形でストラウス的な「指導」というものは可能ではあるだろう。もちろんこの社会(ポスト青春)の領域でも、「指導」というものが不可能となる脱領域化は生じうる(たとえばIT化)だろうが、これはいわゆる「世代論」とはまた別の話になると思われる。
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・・・また、このような「世代論」は、家庭という媒体を通さずに直に社会という機械(メディアという機械)に子供は接続するのだというドゥルーズガタリのイメージと相性がいいかもしれない。
→ ● ドゥルーズガタリ 『アンチオイディプス

◎ ジェームス・ディーンの位置
・反抗 = 家族制度からの逸脱・・・しかし、その磁場自体にはしっかりととらわれており最終的にはそこに回帰する。P173あたり
ニヒリズムの時代に死の激越さを導入する。
・スポーツカーによる死 = ポルシェに乗り時速160キロで走行中事故死。
「自動車とは、つまり逃避である。ランボーの放浪が、ジェームズ・ディーンのスポーツ・カー、ポルシェに取ってかわられたのだ。そして、至高の逃避は死なのである。ちょうど絶対が死であり、至高の個性が死であるように。」P176,177
△ メディアとしての車
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● 香内三郎 『「読者」の誕生』
聖書の「四つの意味」とその解体
☆ 一章 宗教改革と「四つの意味」の解消
◎ 字義通りの意味と三つの「霊的意味」
・・・「霊的意味」は意味の超越的側面(神が書いた)にかかわり、そこから必然的に権威づけられた解釈共同体を生む。これがローマン・カトリックの教会。
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・・・プロテスタンティズムは、この「霊的意味」を排撃する。
カルヴァンの引用する、「コリントの信徒への手紙」「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」P76
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・・・しかし一方で、「字義通りの意味」は「比喩的言語 figurative language」を含み込まざるをえない。
→ ● ポール・ド・マン 『理論への抵抗』
そこに、「読み」の恣意性を縮減するための弁法として「聖霊 spirit」というものが持ち出される。
→ ● デリダ 『グラマトロジーについて』ーここにはあきらかに音声−ロゴス中心主義との平行が存在する。

☆ 二章 「合理的意識」と『参加の意義」の交錯
◎ フーカーによる「理性」
・・・プロテスタンティズムの「聖霊」のかわりに「理性」というものが「字義通りの意味」を恣意性から守るための媒体として理解される。さらには「文脈」という発想も。
◎ アンドリューズによる「信仰」
・・・「われわれは理性によっては神に近づくことはできない」といった否定神学的信念。

☆ 第三章 聖書の「寓話化」による土地共有
◎ ウィンスタンリーの恣意的内面
・・・カルヴァンが「聖霊」、フーカーが「理性」というそれぞれ異なったレトリックを用いていたにせよ、ある普遍的な「内面」の形成をとおして聖書解釈の恣意性を縮減するのだという方向性では一致していたのに対し、ウィンスタンリーの聖書解釈プログラムはというと、それがカトリック教会などの解釈共同体にまったく依拠しない一方で、同時に普遍的な「聖霊」や「理性」といったものにも依拠せず、「内面」というもののもつ恣意性を最大限にまで拡張することで、きわめて奔放な聖書解釈へと突き進む。いわば、カルヴァンやフーカーの戯画のような存在である。

☆ 第四章 聖書の「現在化」と体制批判