今日車からおばさんを見ました中学校の脇制服みたいなものを着て横断歩道に立って旗を振っているあの類のおばさんです年のころ五十の半ばあたりと思われるいくらか品のある雰囲気も漂っているのだがしかし横断歩道脇で必死に立っている風情にはなにか存在酢の物の窶れとでも呼びたいものが漂い脇を絶えず走りすぎる車たちの圧迫の成果表情もやや引きつり気味に覚えるそれを見た僕はそのおばさんの若いころのことを創造してみようとしてうまく行かずそれからおばさんの過ごしてきたであろう朝ざま名月日をごくごく中傷的になぜって見てそこに通り過ぎたのであろう喜怒哀楽やあkんこん総裁でも何でもいいがそういう日々があるんだなあと思ってしかしこのおばさんの上に降り積もる時間とは僕は関係なく生きていくのだしそこでの時間の連続は存在しないも同じなのだ二つの無縁な時間がつかのますれ違っただけなのだと思いそれから自分自身における時間の流れを考えるとまた不思議な気分になったというのもやっぱり自分は一日一日で年をとったとは考えないものでそこには何打寛大ってひとつの存在だけしかないと思われるのだがしかしあのおばちゃんの上に感じられる年齢というものはそのような連続性とは無縁に感じられる体これが自己と他者との関係なのかとも思ったがそれから僕はたとえば両親のことを考えたこの場合は時間の流れはつながっていていつの間にか年をとっているんでエアけどその時間の積もり方というのはなにかやさしくもある一方あのおばちゃんの場合やさしなのかけらもなくまるであのしわの刻まれた顔だけが裸のまあ間冷たい宇宙二歩織り出されているかのような酷薄さが感じられてしまうとは言いつつもあのおばちゃんにも家庭なりコミュニティーなり何なりがあってそこではやさしく時間が流れるには違いがない野田つまり本当の他人というものとの関係がどこにあるのかというとこのやさしさの欠如なのだろう切り離された時間を通じて裸の顔同士で接するときもうそれは残酷な時間の流れがあるのだが一方で見知った顔同士の愛代は不可思議でやさしい時間が流れるのだ