動画コンテンツとコミュニケーション ――テレビからニコニコ動画へ

このところ、メディアとコミュニケーションの関係について色々書いてみているのですが、またその続きです。今回は、動画コンテンツとコミュニケーション、といったより限定的なトピックについて考察してみたいと思います。メディアとコミュニケーションに関する一般理論については、すでに別記事に紹介したように、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』が激しくおススメです。

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動画とコミュニケーション、というとおそらく多くの人がニコニコ動画を連想するだろうと思います。かくいう自分も、このテーマで少し考えてみようと思ったその出発点には、ニコニコ動画というサービスの存在がありました。ただしニコニコ動画をもってはじめて動画コンテンツがコミュニケーションと結びついた、と言いたいわけではありません。というのも、実はそれ以前にテレビがすでに(相当程度に)コミュニケーションの原理に従って機能するメディアであったからです。

ここでいきなり話が飛ぶようですが、インターネットでお手軽に動画を見ることができるようになったあたりから、ということは要はyoutube以後ということですが、「テレビの終焉」ということがしきりに叫ばれています。youtubeが公式に公開された2005年は、竹中平蔵大臣主導で「放送・通信の在り方に関する懇談会」が開催された年でもあり、おそらくこの辺りが大きな転換点だったのかもしれません。放送と通信が共通のインフラのうえで融合することで、もはや一方通行の「放送モデル」に依拠するだけではテレビはやっていけない、というような認識がこの頃から一般化されてきたように思えますし、それに実感レベルでも、テレビをほとんどつけることなく、動画はほとんどネット経由で見るという方向に、人々の、とりわけ若い人々の意識は動いていっているように思えます。

しかし同時に、youtubeやその他の動画サイトで視聴される動画のほとんどが、既存のマスメディアで放送されたコンテンツがアップロードされたものである、というのも厳然とした事実でした。誰もがたとえばyoutubeという、物理的にはマスへと届きうるマスメディアを手に入れ、「自分自身を放送する」ことが可能となったのだとしても、結局は本当に面白いものはテレビ局なりが資本を投入して制作されたものだろう、と多くの人が考えていたように思えます。もしそうだとするならば、動画サイトはあくまでも寄生的な地位をしか占めることができません。人々が見たいと思うコンテンツを制作するのはやはりテレビ局であり、動画サイトはグレーなやり方でそれらに寄生するだけだ、というわけです。

僕自身も最近まではそのような考え方をもっていました。しかしこのところ、急激に考えが変わってきたのでした。そのきっかけは、最初に上げたニコニコ動画と、あとはustreamについての生中継です。これらのものを見るにつけ、やはり「テレビの終焉」という言葉は思っていたよりも真剣に受け取る必要があるのかもしれない、と考えるようになったのです。なぜか。それを説明するためにも、メディアとコミュニケーションという問題を考える必要があるのです。

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先に上げたブーニュー本の監訳者である水島久光は『テレビジョン・クライシス』という本のなかで、テレビというものが以下に日常生活のなかに埋め込まれることで機能していったのかを論じていました。「お茶の間」という言葉が象徴するように、テレビは一般家庭でのコミュニケーションプロセスのなかで重要な役割を果たしていましたし、また「番組プログラム」は人々の時間の流れを構造化していました。テレビというのは、いわば「いつもそこにあるもの」という身近さとともに人々の生活に寄り添っていたわけです。

しかしデジタル化は、そこに根本的な変化(の可能性)をもたらしました。同じ水島氏は、別の論文で次のように書いていました。

かつて日常生活においてテレビは映像を独占的に提供してきた。しかしパッケージメディアの普及、家庭用PCの飛躍的機能向上、ブロードバンド化が相俟って、映像の流通環境は決定的に変化し、テレビ番組はこうした数多の映像コンテンツのなかで、そのワン・オブ・ゼムの位置にまで格下げされた。
(水島久光「テレビと技術 テレビジョン分析の現在」『テレビジョン解体』、慶應義塾大学出版会、所収、68,69頁)

そして

放送が「番組」と呼んでいる制作物は、そのような流れの中で実態としては時間・空間的コンテクストから切り離されて商品として流通可能な「コンテンツ」として扱うことが可能になりつつある(実際に、放送番組の制作者たちが、既に自分たちの制作物を「コンテンツ」と呼び始めている。
(同上、69頁)

テレビで放送される映像が、「番組」から「コンテンツ」へとステータスを変えるというのは、その映像が日常生活の時間の流れから離脱することを意味します。毎週決まった時間に放送されるドラマは日常のリズムを形作るという機能を持っていますが、それがコンテンツとしてDVD化されたとき、その映像はそのような日常の文脈からは切り離されることになります。

しかし考えてみれば、そもそもテレビ番組の多くは、コンテンツとして脱文脈化されることには適していません。それは、テレビというものが基本的には日常の時間の流れの中の、視聴者によって共有される集団的な「いま・ここ」で視聴されるということを前提として制作されているからです。それゆえ映画とは異なってテレビでは多くの場合、まずは挨拶や自己紹介といった「いま・ここ」のコミュニケーションを起動する、というモードによって番組がスタートするわけです。

テレビ番組には、ニュースやワイドショーなど、どうやっても日常の時間性から切り離してコンテンツ化することが不可能な番組群が一方にあり、ドラマやドキュメンタリーなど、コンテンツ化に相性のいい番組群が他方にあります。これら二つの番組群は、同じくテレビというマスメディアによって放送されているわけですが、実際には互いにかなり異なるモードで受容されている可能性が高いと考えられます。

ここでは乱暴に、コンテンツ化不可能な前者を受容する態度を「コミュニケーション的受容」、コンテンツ化可能な後者を受容する態度を「コンテンツ的受容」と呼ぶことにします。ブーニューの議論に即するならば、前者は「わたしたち」というある閉域をともなう「閉じた受容」であり、後者は逆にそうした「閉じ」に動揺させる「開かれた受容」とも言いかえることができます。「コミュニケーション的受容」が、あらかじめ存在すると信じられている「わたしたち」を安心させるものであるのに対し、「コンテンツ的受容」は、それが希有な可能性であったとしても、自分自身の価値観や世界観に変化をもたらすということがありえます。

もちろん、「コンテンツ」と「作品」を区別し、消費的態度と愛好者的態度(これはスティグレールの用語ですが)という観点からその区別を根拠づける、ということも可能でしょう。しかしここではその問題には立ち入らないことにします。

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このようにテレビを見るという行為が、少なくとも二つの異なる側面を有しているのだとすれば、「テレビの終焉」と述べる際にも、この二つの側面をともに考慮する必要があります。わたしたちがテレビを通して「コンテンツ」を享受しているのか、それとも「コミュニケーション」を享受しているのかによって、テレビとともに終わるものの内実が大きく変わってくるからです。たとえばワイドショー番組しか見ない人間にとってと、ドキュメンタリー番組しか見ない人間にとってでは、「テレビの終焉」の意味はまったく異なります。一方にとっての「テレビの終焉」が、他方にとってはまったくそうではない、ということも十分にあり得るのです。

それゆえ、「テレビの終焉」というものを主張する際には、「コンテンツ供給者」としてのテレビと、「コミュニケーション供給者」としてのテレビ、というものを区別するべきであると僕は考えます。たとえば現代の新たなテクノロジーが、「コミュニケーション供給者」としてのテレビは用無しにしつつあったとしても、「コンテンツ供給者」としてのテレビに関してはそれはあたらない、という可能性もあるわけです。

と、ようやく今回の考察のために必要な道具立てが整ったところで、「テレビの終焉」というものについて僕がもっている暫定的な結論を先取り的に述べることにします。それは、

ある種の「コミュニケーション供給者」としてのテレビの役割は、かなりの部分で新たなメディアテクノロジーによって代替される可能性があるかもしれない。他方、「コンテンツ供給者」としてのテレビの役割ということでは、原理的に代替されえない部分が多く残りつづけるだろう

というものです。今回の記事では、「コミュニケーション供給者」としてのテレビの役割の終焉というものの可能性に焦点を絞ってみたいと思います。

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僕はニコニコ動画のきわめてライトなユーザーであり、その変化の動向を細かく追っていたというわけではまったくないのですが、しかし傍から遠目で見ているだけでも、このサービスがたどった軌跡というのはきわめて興味深いと確信して述べることができます。

怠け者根性を遺憾なく発揮して、特に調べることもなく大まかな自分感覚で述べてしまいますが、ニコニコ動画というサービスの変遷は個人的には三つのステップぐらいで理解できるのではないか、と考えています。

■ 第一期(コンテンツ寄生期)
半ば無法地帯状態で、限りなくブラックに近いグレーな動画が次々とアップロードされていた時代。

■ 第二期(ネタ・コミュニケーション期)
グレーな動画がかなり厳しく排除されていくなかで、少しずつ個人発信の動画が育っていった時代。

■ 第三期(実況・ミュニティー期)
生放送など新たな発信機能を実装するとともに、コミュニティー形成を促す環境を用意し始めた時代。


もちろん実際にはいろんなことが同時に進んいたはずなのですが、とりあえずそこは脇に置いておきます。きわめて乱暴なこれらの区分になかで、決定的な一線が越えられたのは、第一期から第二期の移行であると考えています。というのも、第一期はテレビや映画などの別のメディアから流用されたコンテンツにいわば寄生する形でサービスが成立していたのに対して、第二期以降では、ニコニコ動画の内部で相当程度自律的にコミュニケーションが生み出される、という段階に入ったと考えるからです。

第二期から第三期への移行は、ニコニコ動画内で生成される自律的なコミュニケーションの構造化、として理解できると考えています。おおまかに説明すれば、動画というコミュニケーションのネタへの「wwwww」という匿名的な発言の集積という段階から、それらのコミュニケーションがコミュニティーとして構造化される段階へ、という違いです。もちろん、コミュニケーションは必然的にコミュニティーを作り出すものですが、第二期から第三期への移行は、ニコニコ動画内で自律的に生成されていったコミュニケーションが形成し始めたさまざまなコミュニティーの萌芽を、ニコニコ動画アーキテクチャとして取り込み構造化していった、ということなのだと思います。

僕は当初、ニコニコ動画著作権問題に厳しく対応するようになり、テレビや映画のコンテンツが一斉に消えていった時点、正確にはその少し後の段階では、これで「ニコ動」も終わりかな、と思ったりしていたのでした。正確には、少数のヘビーユーザだけが延々と内輪のコミュニケーションを繰り広げていくだけのマイナー・メディアになっていくのだろう、と予想したのでした。おそらく、ここで第二期と呼んでいる時代は、場合によっては実際にニコニコ動画そのような道筋を辿ってしまう可能性にも開かれていた段階だったような気がします。現時点では、第二期から第三期へのニコニコ動画の進化を見ていると、新たなマスメディア=マスコミュニケーションとしてのプラットフォームを確立しつつあるように思えます。

この記事の冒頭で、ニコニコ動画では、動画コンテンツとコミュニケーションが結合している、というような言い方をしました。しかし第一期から第三期までへの移行というものを考えると、その「結合」というものの内実についても、もう少し検討する必要があります。

第一期では、その「結合」はまずはコンテンツありきという形をとっていたと思います。「ニコニコ動画とはyoutubeに字幕をつけたものである」という当時の一般的な認識がそのことを示しています。ニコニコ動画は動画コンテンツを見るためのサイトの一つであり、画面上にコメントが流れていくという点で他とは違う、という発想です。僕自身、素朴にそのように考えていました。そこではコミュニケーションは、動画を面白く見るための副次的役割を果たすものでしかありませんでした。

第二期から、コンテンツとコミュニケーションの主従が完全に逆転します。そこではコミュニケーションの活性化こそが目的であり、コンテンツはそれを活性化させるためのネタという地位を占めるにすぎません。ただしこの場合、コミュニケーションの活性化のためには、絶えず新たなネタが投入されつづける必要があります。思うにこのようなモデルはそれほど長続きすることができません。というのも、新たなネタの追求という作業は面白くも疲れるものであり、人はどこかでそれに飽きてしまうだろうからです。

第三期を理解するためのキーワードは、「実況」であると個人的に考えています。「実況」は、「その場に居合わせること」を要求します。本来「実況」はリアルタイムの「中継」を要求しますが、ニコニコ動画濱野智史が「疑似同期性」と呼んだ感覚を生み出すことができるので、アーカイヴから呼び出された動画であっても「実況」とそれに対するリアクションの同時的共有を、疑似的に体験することができます*1。「実況」がなぜ重要かというと、それが基本的に「飽きない」ものであるからです。

たとえばゲームの実況プレイ動画というものを考えてみましょう。こういった動画を見るという感覚は、友達の家に言ってその友達がゲームをやっているのを横でおしゃべりしながら見ている、というのに近いと思います。最近、「天下一将棋界」というアーケード用の将棋ゲームのプレイ動画をよく見てしまうのですが、これがまったく飽きない。そのプレイヤーがどんなに下手くそであっても、なんとなく見てしまう。

「実況」の論理を極限にまで純化すると、必然的に出てくるのは「自分を実況する」という行為になります。ニコニコ生放送というのは、まさにこの「自分を実況する」をいわば番組化したサービスである、と言えるかと思います。youtubeは「自分自身を放送しよう」と謳いましたが、素人がそう簡単に面白いコンテンツを作ったりはできません。しかし「自分を実況する」ことは簡単にでき、やりようによっては、それは人を飽きさせないのです。そして飽きさせないための最大の手段は、友達になること、顔馴染みになることです。顔馴染みの人間とであれば、他愛のない話であってもそれなりに飽きないのです。ニコニコ生放送のコミュニティー機能がどれほど実際に機能しているのかは僕は知りませんが、少なくとも、「顔馴染みになること」をアーキテクチャ化しているのが、そのコミュニティー機能なのだと思います。

誰もが知っているように、この「顔馴染みになること」という契機は、テレビにとっても本質的なものです。正確には、「コミュニケーション供給者」としてのテレビにとって、それは本質的です。新聞が毎朝郵便受けに届くように、毎週同じ顔がテレビ画面上に現れてくるという事実が、テレビを見つづける私たちにとっては、実はかなり重要だったりします。僕の弟なんかもそうでしたが、テレビをまったく見ずに、その時間があればニコニコ動画を見る、ということを可能とするのは、そこに面白いコンテンツがあるからではなく、それがコミュニケーションを提供してくれるからなのだと思います。

先日の参院選では、ニコニコ動画でもかなり豪華なメンツを集めて(20時時点で原口総務大臣が出演していたのは、どの民放番組でもNHKでもなく、ニコニコ生放送でした)選挙速報をやり、総計で10万人の視聴者を集めていましたが、たとえば十人の視聴者を集める生放送主が一万人いれば10万人になります。人がコミュニケーションを渇望する力というものはおそらくきわめて強いもので、これまではテレビを見てきた視聴者の相当の部分は、実は内容ではなく、なんとなくのコミュニケーション的な接触を求めてテレビを見ていたのではないか、と思ったりもします。そしてコミュニケーション的な接触ということで言えば、ニコニコ動画はテレビなどよりもずっと濃密な(もちろん現実の人間的つながりと比べるとずっと希薄な)コミュニケーションを提供しています。となれば、それらの人たちがテレビからニコニコ動画へ移っていっても何も不思議ではありません。この当たりの実際が本当に明らかになるのは、中高生あたりからニコニコ動画が存在している世代が成長していったあとの話だと思いますが。

長くなってしまいましたが、最後にustreamの話もちょっとだけしたいと思います。以前、ソラノートのそらの氏が企画した、ustreamを用いてのダダ漏れ放送「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」について書いたことがありました。その放送内で行われていたのは、言ってみれば「面白い人たちの面白いおしゃべり」です。そしてustreamを通じてダダ漏れされたそのおしゃべりに、ustreamと連動したtwitterによって別のレイヤーでのおしゃべりの渦が重なっていました。

あるいは先日、ジャーナリストの岩上安身氏による、同じくジャーナリストの上杉隆氏へのインタビューがustreamで流されていました。軽い気持ちで見始めたのですが、鳩山邦夫事務所時代の話などがあまりに面白く、ついつい最後まで見てしまいました。上杉氏に限らず、面白い話をもっている人は探せば世の中には腐るほどいるはずです。しかしいくら面白くても、それをテレビでダダ漏れするには、電波というのはあまりに希少な資源です。しかしustreamならばいくらでもダダ漏れできるわけです。そしてそれが本当に面白い内容であれば、告知されなくても最低限の人が見ていれば、twitterを通して拡散して、リアルタイムで視聴者を確保していくことができます。上記の上杉氏インタビューの場合、見始めでは視聴者が1300人程度でしたが、最後にはその倍くらいにまでは膨れ上がっていました。

コストをほとんどかけなくても、放っておいても面白いイベント、人間をそのままダダ漏れするというだけで、実はテレビで流されている番組なんかよりもずっと面白いコンテンツができてしまったりします。従来は、そのような映像を流せるマスメディアが存在しなかったわけですが、いまはすでに軽やかに可能となっています。さらにtwitterというコミュニケーションぷらっとフォーによって、そのコンテンツが本当に面白いものであれば、潜在的な相当程度マスな人々に届くことも可能となっています。

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最初書こうと思っていたことがちゃんと書けているかははなはだ疑問ですが、メディアは「コンテンツ」を運んでくることもあれば、私たちにコミュニケーションをもらたしてもくれます。そしてデジタルテクノロジーがさまざまな形でリアルタイムのコミュニケーション可能性を提供し始めていることによって(ニコ動、ustreamtwitter)、これまでのマスメディアが担ってきたコミュニケーション供給者としての役割は、大きく相対化されていくのではないか、という印象をもっています。

技術的環境の変化によって、これまで一緒くたに理解されてきたもの、たとえばマスメディア=マスコミだったり、「コミュニケーション供給者」と「コンテンツ供給者」といったものが、それぞれ独立した変数として浮上してきている、という風に思います。ベルナール・スティグレールは技術的変化のうちに時代を宙づりにする作用を見出していますが、こういった現状を見るにつけ、まさにその通りだなあとの実感を強くするこの頃であります。

*1:ちなみに「疑似同期性」については、手前味噌ながら濱野氏が(たぶん)最初にそれについて書いた時よりも前に、このブログで論じていました。そのときは「擬似的な同時性」という言葉を使っていましたが。